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2021年03月の記事は以下のとおりです。

オリンピックは反人民的祭典である

「オリンピックは反人民的祭典である」

-スポーツと欺瞞に満ちたオリ・パラリンピック-

 

1、「スポーツは、人々が楽しみ、より良く生きるために、自ら行なう自由な身体活動である。スポーツをする人は、美しいスポーツマンシップが生まれることを求め、健康な身体を育てることを目的とする」 

  スポーツに関するこの定義は、日本体育協会スポーツ憲章によるものです。

この憲章のスポーツの定義は、真に正しいものです。

スポーツとは、国民の1人1人がすべて、自分で楽しみ、より健康で豊かに生きてゆくために、自分で行なう、何物(カネや名誉等)にも束縛されず、自由に行なう身体活動なのです。

2、人類の歴史の中で、スポーツというものが生まれるのは、かなり遅く、近代以降と言われています。

古代(ギリシャ、ローマなど)では、剣奴による闘剣とか、戦車競争など、戦争に直結した体力、技倆の競争が主たるもので、純粋に人間1人1人の健康増進のために身体を鍛えるという考え方はありませんでした。

このように、戦争のために人間の(主として男子の)体力を強化するという考え方は、ほぼ近代まで疑問を抱かずに認められていました。

そのため、スポーツというものが戦争、戦闘行為と直結していたことは否定できません。

そのことは、戦前、戦中の日本軍国主義社会における体育、教練などを見れば一目瞭然です。

そこでの体育の目的は、主として敵を殺傷、せん滅するための体力づくりであり、そのための柔・剣道などの技術修得でした。

敵を殺傷、せん滅するための身体鍛錬、技術の養成を最も理想的に行なえるのは、軍隊における過酷な教育です。

このように、戦争というものと体育、スポーツというものは、極めて強いつながりを持っているのです。

3、近代に入り、社会の経済力が強まり、一定の余力が生まれるとともに、娯楽の要素の強い本来のスポーツが生まれてきます。

イギリスにおいて生まれた卓球、ホッケー、テニス、サッカー、ラグビーなど、又、その後アメリカで改良されたアメリカンフットボール、野球等々、基本的には軍事とは関係のないスポーツが次々と生まれ、それとともにそれまでは特定の者にしか許されなかったスポーツが大衆のものになってきたのです。

このように大衆が等しく、健康のためにスポーツを楽しめるようになるためには、すべての大衆がスポーツを楽しめるだけの経済的、時間的余裕を持つことと、貴族であれ軍人であれ一般大衆であれ、誰もが差別なくスポーツに関与できる条件がなくてはなりません。

つまり、すべての大衆が等しく、それぞれが好むスポーツに参加するためには、社会の中に正しい意味での民主主義が存在することが必要なのです。

4、フランスの貴族であるクーベルタン男爵によって提唱されたオリンピックが、1896年に開催されました。

オリンピックの究極の目的は、スポーツを通じた相互理解、友好の精神による世界の平和です。

古代ギリシャ時代から続く、世界の戦争を、オリンピック精神で止揚したいとするクーベルタン男爵の発想を理解したいとは思いますが、現実には、第1回目のオリンピック(1896年)以降、続く米西戦争、日露戦争、第一次世界大戦(1914~1918)、第二次世界大戦((1939~1945)、朝鮮戦争、ベトナム戦争(1964~75)、湾岸戦争(1991)、イラク戦争(2003~2011)、アフガン戦争(2001~)と、オリンピック精神などは全くと言って良い程空疎なものとなっています。

オリンピックを創始したクーベルタン男爵自身は、第二次世界大戦が始まる直前にスイスで没しているため、まさか自分が創始したオリンピックの後に、世界中でこれだけ多くの大戦争、大量の人類殺戮がなされているとは、夢にも思わなかったことでしょう。

結局のところ、単純な平和主義によって真の平和が実現できるわけもなく、スポーツを通しての世界平和などというものが、全くの幻想に過ぎないことが歴史上既に証明されているのです。

5、前述のとおり、スポーツというのは、1人1人の市民が、より良く生きるために、自らが楽しみ、自らが行なう自由な身体活動です。

1人1人の人間が自由な意思で楽しみながら自ら行なうのがスポーツです。

もちろん、他人がスポーツをしているのを見て楽しむという面もありますが、あくまでも1人1人が自らの身体を活用して行なうものです。

古代の剣奴の闘いや、戦車競争のように、皇帝が奴隷や戦士に大衆の前で闘わせて楽しませるというものありました。

しかし、これは正しいスポーツでもなんでもない、ただの見せ物です。

現代でも大衆の前で公開処刑をする国々が存在しますが、これらは、体制や社会に不満を抱く大衆の欲求不満のハケ口として支配者が利用する手段という意味で、剣奴の殺し合いも一緒です。

そもそも、古代には一般の大衆が、より良い生活のために楽しめるスポーツなどというものは存在していなかったのです。

たまにスポーツと言えるものがあったとしても、それはせいぜい一部特権階級の者にのみ与えられたものでしかありません。

現代において、果して、すべての大衆がより良い生活のために、自ら楽しむスポーツというものが十分保障されているでしょうか。

断じて否です。

21世紀においても、そのように真のスポーツを保障されている人々は、多くの国において、極く一部しかいないでしょう。

その結果、大多数の人々は、他人(殆どがプロフェッショナルのスポーツ人)の演じるスポーツを見聞きして満足しているのです。

そのことは、巨大なマスメディアの発達によって一層顕著なものになっています。

巨大マスメディアは、世界中で行なわれるプロのスポーツを、電波や活字などで一般大衆の茶の間まで届け、大衆がいかにも、自分でもスポーツに参加しているような感覚にさせるのです。

そのことによって、巨大マスメディアを初めとして、スポーツのイベントを主催する企業、団体は巨大な利権を手にするのです。

その最大のイベントこそオリンピックです。

6、オリンピックを頂点とするスポーツイベントに参加し、一定の成績を上げたアスリートは、月桂冠ではなく、今や1つのイベントだけで数億円の富を手にすることができます。

プロ野球の大谷祥平選手、プロテニスの大坂なおみ選手などは、僅か20歳そこそこで年間に数億円の富を手にしています。

それは純粋にスポーツの種目で上げた成績に対する報酬だけでなく、名声を博したことによる企業の看板、広告塔としての役割に対する莫大な契約金を含んでいます。

現在の日本のテレビのワイドショー、ニュースのキャスターに、いかにスポーツ界の出身者が多いことでしょう。

又、いかに多くの有名スポーツ選手が、政界に転身し栄達の道を歩んでいることでしょう。

今や有名人になり金儲けをしようとしたら、博士や大臣ではなく、子供をスポーツ選手にするのが一番の早道です。

甲子園に限らず、あらゆるスポーツが立身出世のための近道とされているのです。

では一体、大坂なおみ選手や大谷祥平選手、錦織 圭選手などが手に入れている莫大な報酬金というものは、一体誰が生み出しているのでしょうか。

それは紛れもなく、悲惨な生活を強いられている世界中の労働者です。

7、パラリンピックはどうでしょうか。テニス界を例にとると、日本には国枝慎吾選手や上地結衣選手など、世界レベルの障害者プレイヤーがいます。

グランドスラムでの優勝金額は、健常者の数億円に比較すると、その50分の1の400万円程度です。

それでも、毎回のように、国内、世界各地の大会に参加し、多くの観衆の前で好きなテニスゲームを闘える、などという境遇は、無数に存在する障害者から見れば、まるで雲の上の存在でしょう。

このようなある種恵まれた境遇の選手は、経済的にも相当恵まれた家庭に育った数少ない「エリート」でしょう。

しかし、大多数の障害者は、これら一部のエリート選手の活躍を見て、本当に生きる勇気を与えられるでしょうか。

むしろ現在置かれている苦しい状況を益々思い知らされるのではないでしょうか。

パラリンピックなど、いかにも、障害者であっても、努力すれば報われるというような幻想を与えていますが、本当のところは、経済的にも身体的にも社会の援助を一層厚くして欲しい、と願うのが大多数の障害者ではないでしょうか。

大多数の障害者にとっては、パラリンピックで莫大な予算を使わなくても良いから、もっと自分達の生活が豊かで暮し易いものになることをこそ、願っているのではないでしょうか。

又、パラリンピックやグランドスラムには出られなくとも、自分達にも最低限のスポーツのチャンスを与えて欲しい、と願っているのではないでしょうか。

そのことは、健常者についても全く同様です。

大多数の国民は、一日中休みもなく働き、自分がスポーツを楽しんだり、健康のためのスポーツに取り組んだりする余裕すらないでしょう。

又、誰でも、いつでも、安価にスポーツを楽しめる施設も満足にありません。

そのような人々に、先ず、スポーツをする自由と環境を与えることこそが優先されるべきであって、一部のスポーツスペシャリストのためのスポーツイベントやオリンピックを優先すべきではありません。

8、オリンピック憲章を見ると、実に立派なことが沢山書かれています。 

 ・ 良い手本となる教育的価値、社会的責任、普遍的・基本的倫理的諸原則の尊重に基いた生き方の創造

 ・ 人間の尊厳保持に重きを置く平和的社会の推進

 ・ スポーツを行なうことは人権の1つである。

   すべての個人は、いかなる差別もなく、スポーツを行なう機会を与えられなければならない

 ・ 人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基く差別は、オリンピック活動と相容れない。(etc.)

  こうしたオリンピック憲章の理念、理想というものが、真に生かされている国家というものは、残念ながら存在しません。

今や、新自由主義の経済原則がまかりとおり、どこの国も、「俺だけ、今だけ、自分だけ」の世の中になっています。

コロナ禍によって人類の生存が危惧されているにも拘らず、先進国と言われる国々では、コロナワクチンの醜い奪い合いを演じています。

そして国内では、8年間続いた安倍政権とそれを引き継ぐ菅政権によって、国家と国民の倫理観、道徳観は腐敗、衰退し、社会全体が腐臭を放っています。

このような時に、オリンピックを開催するなどということは、そもそもオリンピックの精神を踏みにじるものと言うべきです。

私達の時代は、到底オリンピックを口にできるようなものではありません。

今こそ、私達国民1人1人が自分の足元と、国、社会の現状に目を見開き、本来の人間としての生存の道を探求すべき時です。

一部のスポーツエリートと、それを利用して国民の血税を搾り取ろうとする大企業、マスメディア、官僚たちのために、国の莫大な予算を費消するなどということは、例え、コロナ禍が無かったとしても到底許されるべきことではありません。

エセ平和主義、平等主義が虚飾されたオリンピックという反人民的イベントは、今こそ廃止すべきです。

何が何でも、東京オリンピック・パラリンピックの中止、断念を希求しましょう。

以 上

 

 

小沢一郎議員を支援する会 

代表世話人 伊 東   章

 

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