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「女性ならばすべて民主的か」-森喜朗発言に寄せて-

「女性ならばすべて民主的か」-森喜朗発言に寄せて-

 

小沢一郎議員を支援する会 

代表世話人 伊 東   章

 

1、森喜朗東京オリ・パラ競技大会組織委員会会長(元総理大臣))が、女性蔑視発言をしたことが国の内外から批判されたことを契機として、会長を辞任することになった。

国民が長引くコロナ禍の中で極度の焦燥感を抱き、先行きの見えない不安に苛まれているところへ、こうした女性蔑視発言をしたことが、女性を中心としたジェンダー論者の標的となったものである。

肝心の森会長は辞意を表明する外なかったが、日本サッカー協会の元会長であり、早大の後輩である川渕三郎に会長職を譲り、その見返りに自身が相談役として残るとの密約をしたことが暴露され、結局川渕三郎も会長就任を辞退する、という漫画のようなオマケがついたのも笑える。

しかも、その茶番劇には、菅総理、安倍前総理、武藤敏郎オリ・パラ競技大会組織委員会事務総長(元大蔵事務次官)が出演していたというのも語るに落ちる。

その結果、新しい東京オリ・パラ競技大会組織委員会会長には、現東京オリ・パラ競技大会担当大臣の橋本聖子を当てようか、という流れが加速しているとうことである。

2、そもそも、女性蔑視とか性差別というものの本質とは一体何であろうか。

世界の歴史上、相当古くから人間の社会は男性中心であり、男性が社会のあらゆる領域において女性より上位に置かれ、女性は男性の支配下で生きることが当然とされてきた。

そのことは、主として人間が生きるために営む生産労働、対立する勢力との間で生じる戦争の担い手が、主として男性であったという社会的、経済的な事情に起因している。

反対に、女性にとっては後継者である子を産み、これを育てることが主たる役割となった結果、必然的に男性優位の社会が生まれ、発展してきた。

多くの先進国のように、男女を分たずに教育の機会均等が保証されるに至った現代では、男女性差によって人間の能力に差異が存在すると考えることは困難となってきた。

もしあるとすれば、肉体的な強弱の差が未だ存在するが、それは、長い歴史の中での肉体の使用方法における男女の差が、容易には埋まらない結果と言える。

社会の労働のあり方が変遷すれば、いずれ男性と女性の肉体的力の差は失われてゆく筈である。

つまり、現在依然として私達の目前で見ることのできる男女間の能力差というものは、長い歴史における男女の社会的役割の中で育まれたものであることが判る。

もしも、社会があらゆる分野において男性と同等に女性の進出を認めるようになれば、いずれ男女間の格差もすべて失われるべきものである。

3、民主主義というものの発生については、古代のギリシャとかローマの時代のことが語られ、その後下っては、イギリスのマグナカルタ(大憲章)(1215年)、権利の章典(1689年)、アメリカ独立宣言(1776年)、フランス人権宣言(1789年)が語られている。

しかし、この中で本格的に人間の平等、自由が謳われているのは、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言ぐらいで、それ以前の民主主義は、あくまでも貴族や平民など特定の身分の者にしか適用しない概念であった。

しかし、独立宣言にしろ、人権宣言にしろ、そこで語られている自由、平等は、主として男性の権利として語られており、女性の権利については殆ど枠の外に置かれている。

女性独自の権利について語られるのは、辛うじて人権宣言後、本格的には20世紀に入ってからである。

つまり、民主主義の歩みというものは、このようにカタツムリの歩みのようにノロイのである。

4、さて、翻って考えると、21世紀を既に5分の1経過した現在、世界を見渡して真の民主主義国家、社会が存在するであろうか。

答は絶対に否である。

真の民主主義というのは、単に万民が選挙権を有しているという程度のことではない。

経済的にも、政治的にも、社会的にも、文化的にも、あらゆる面で、一人一人の人間が、老若、男女、を問わず平等であり、自由であることである。

21世紀の現代社会は、その経済力と科学力においては、多分歴史上で最高のレベルに到達していると思うものの、民主主義の成熟という点では、古代のギリシャ、ローマ時代と質的には大差ない、と言うべきである。

人間差別の表れ方は、性別、身分、人種、貧富、教育、思想等々、あらゆる生活の側面において現出する。

男女差別というものは、その中の一つに過ぎない。

そして、すべての差別の根源は、主として経済力の差であると言っても過言ではない。

女性が男性と差別され、蔑視される、ということの意味は、貧乏人が富者に差別されたり、黒人が白人に差別されることと全く同質の問題である。

と言うことは、女性差別、女性蔑視に対して怒りを発する人々は、同じように貧富の差、人種差別に対しても怒らなくてはならない筈である。

女性差別、女性蔑視は、イコール経済力による差別や人種差別と同様、民主主義の否定から生まれているのである。

5、森喜朗の女性差別発言というものは、単に女性に対する差別だけではなく、すべての弱者、国民に対する差別であることを忘れてはならない。

森喜朗を支える菅総理、安倍前総理、そして元大蔵事務次官、日銀副総裁の武藤敏郎、橋本聖子東京オリ・パラ競技大会担当大臣、そして彼らの上部にある自民党は、すべて長年にわたる国民に対する簒奪者であり、差別者である。

橋本東京オリ・パラ競技大会担当大臣が女性だから女性差別をしないなどというのは幻想である。

彼女も又、森喜朗の差別発言を擁護してきたし、同じ党の杉田水脈衆議院議員も公然と女性蔑視発言を繰り返している。

つまり、真の民主主義を理解しない者は、老若男女を問わず、存在するのである。

私達は女性であれば女性差別をしない、などと甘い幻想を抱いてはならない。

女性差別問題は正しく真の民主主義をどのように考えるかの一つの試金石なのである。

国の権力を独占し、これを自分達のグループ内で樽回しをし、利権をムサボっている権力者を、その椅子から引きずり降ろさない限り、女性蔑視も不平等も不自由も貧困も無くならないことを銘記すべきである。

以 上

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