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【世話人情報】 元裁判官が証言する日本の裁判所と裁判官の暗黒の実態(1/3)

以下に転載します文章は、1992年に大阪高裁判事で退官された裁判官歴22年の生田暉雄弁護士がJR東日本労組主催の講演会で話された内容を書 き起こしたものです。

生田さんは「裁判は主権実現の手段である」とのお考えで各地の教科書裁判や最高裁の「やらせタウンミーティング」違法訴訟、国民投票法違憲訴訟に 弁護士として関与されています。

生田さんはまた「最高裁の裏金問題」を追及され最高裁相手に「裁判官の統制とウラ金の司法行政文書の開示を求める裁判」を起こされ闘っておられま す。

私はブログ記事「不条理と不正義と不平等がまかり通る日本社会を作り出したA級戦犯は日本の裁判所と裁判官」を昨年12月19日に書きました。

http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/cd0800a3a1e8080f5390c0ac73f97abd

日本の社会に不不正義がまかり通り冤罪が頻発し権利が侵害され憲法がないがしろにされているのは、全て日本の裁判所と裁判官が腐りきっているから だとの内容の記事です。

非常に長い文書ですが貴重な情報や指摘や示唆が書かれていますので是非お読みください。

▼ 最高裁のウラ金  生田暉雄氏

 2011 年 1 月 20 日 「魚の目」

 http://uonome.jp/feature/1048

最高裁のウラ金 生田暉雄氏

3回死にかけたが、死なずに助かった

 皆さん、おはようございます。本日はお招きいただきまして、非常に光栄に思っております。今日は、私の体験したことを中心に、裁判所 の実情、裁判官とはどういうものかということが、

少しでも分かるようなお話ができればと思っております。

 私は22年間裁判官をしておったのですが、裁判官の気持ちをお話しするには、本当に私は適切かなという気でおるのです。私は、元裁判官 ということを、できるだけ表に出さないつもりで仕事をしています。

あまり元裁判官であるということを、それほど強調したくもないのです。

 それと、ほかの裁判官とは、どうも経歴からしても異色のような気がして、それが私自身の強みでもあり、弱みでもあるようなものですか ら、あまり一般化で きるものではないんじゃないかなという気もします。

しかし今回はご示唆もありましたので、やむなくそういうところまで踏み込んで、話してみたいと思ってお ります。どうしても人間というのは、その人の生い立ちがものすごく影響するように思うんですよね。

 私の場合は昭和16年に生まれまして、生まれたときがもう虚弱体質で、これは助からんと医者から見放されたが、何とか生き延びました。 それから2、3歳のときには全身の出来物で、まただめだということで、

これも母親の漢方医療みたいなもので、何とか持ち延びました。

 それから4歳のときに終戦で、神戸から両親の実家がある四国へ逃げて帰る最中に、汽車の中で連結器の上に立っていまして、あまりにも体 が冷えて、体中の 血液が全部ドシヤッと下血してしまって、

4歳から6歳までは四国の徳島で寝たきりの生活。重湯って皆さん知らないかもしれませんけれど、米の研ぎ汁ですよ ね、それだけを飲んで2年間生き延びていました。

 それで2年が経ち、多少元気になってくると、研ぎ汁だけじゃなしに少しは粒のものが欲しくなる。それで米の粒をいくらか入れると、また 下痢をしてしまっ て、元の状態に戻ってしまい、また2年間寝たきりで過ごしました。

小学校でも、人よりも発達が遅れていて、体も小さい。遠足なんか行くのは片道がようやく で、帰りは親父がリュックサックの中へ私を放り込んで帰った。

 生まれてから、3回ほど死にかけて、よく死なずに助かったと。これは自分なりにいいほうに考えようと思って、神様が、何とか生きとって 世の中のためになるようなことをせえと言っとるんちゃうかというふうに、

善意に解釈して生きてきたわけです。

 それで中学・高校と剣道をして、高校のときは兵庫県で個人でも2位ぐらいの実力になりました。もう剣道にのめり込んで、近藤勇が竹刀を 3000回振った というのを聞いたら、自分も毎日3000回振る。

3000回振るのに1日3時間ぐらい振り続けなけりゃならんので、近所では、あそこには気違いがおるとか いう噂がたつぐらい、のめり込んでいました。それはよかったのですが、高校を出ても行く大学がない。

 それで親は、下に2人も弟がおるのに、お前だけを私立大学にやらすわけにはいかんと言うのですが、私立大学以外に行けるところはないの で、家から通えて 月謝が当時一番安かった関西大学に行きました。

関大に行ったのですが、やっぱりもう一回勉強し直して、別の大学を出直したほうがいいんかなと3年ぐらいま で毎日考えていました。また学費のために毎日バイトで、学校行くよりバイトのほうが多かった。

そんな生活をしていました。

 3年のときに、司法試験があるというのを友だちから聞いて、それならそれを受けていこうということで、4年とそれから卒業して1年は、 丸っきり浪人して 勉強したのですが、まだまだだめで、卒業して2年目は

私立の高校の歴史の先生、これは教員免許を取りつつあるということで、免許なしでもやれたので、それ をやった。それから、大学を出て3年目は神戸市役所へ勤めて、4年目の神戸市役所のときに司法試験に通った。

かなり異質な経歴で裁判官になった

 裁判官はみんな勉強がよくできる、学校秀才といいますか、勉強ができるというのが、唯一の本人のよりどころのような人ばかりの集まり なんですよ ね。そういう中で、私はかなり異質な経歴で入ってきまして、

これでいいのかなというのと、一方では、人よりもバイタリティのある生き方をしてきたというこ とが励みにもなっていました。

 なぜ裁判官を選んだかといいますと、司法試験通って、われわれのときは10クラスぐらいに分かれているんですね、1クラス50人ぐらい です。それで始まって5日ぐらいまでのあいだに、コンパがあるんですよ。

 そのときに、あとで最高裁判事にもなられた谷口正孝という裁判官の教官がおって、その人のところに酒をつぎにいくと、生田君、君はもう この席で裁判官に なるという約束せえ、

そうしたら任地も全部保証してやるわと言うんです。

そこまで言われたら、私も司法試験の成績もそこそこだったのかなということも思っ たのですが、そんなあまり人のおだてに乗るような生活をしてきていないものですから、必ずしもその場では、うんと言わなかったんです。

 それから検察官の教官のところに行きますと、生田君、君は顔つき、体つき、検事に生まれついたみたいなものだから、絶対出世するから、 もうここで検事に なるという約束をせえと言うわけです。顔つき、

体つきだけで大丈夫なんだろうか、成績とか能力とか、そんなことは関係ないのかなと思い、「顔つき、体つき だけで大丈夫ですか」と言ったら、「うん、大丈夫」だと。それから、「私は青法協に入っていますけれど、

大丈夫ですか」と言ったら、「人の思想はいつでも 変わるけれども、性格は変わらん。君の性格は検事に向いているから、出世する」というわけです。

 その検事からは、裁判官になるということを決めたあとでも、まだ撤回して検事にならんかという説得を受けました。そういうことで、公務 員になるということには大して抵抗はなく、

裁判官になっていったと、そういう経歴があります。

裁判官の日常生活

 それで裁判官になって、22年間で7箇所転勤しているわけです。3年に1回の転勤ということです。裁判官の生活はどんなものかといい ますと、最後 は高松家裁の上席裁判官ということで終わったのですが、

高松家裁へ行ったのが47歳のときです。このとき、所長と上席には黒塗りの車が配車されるんです。 だから、裁判所と官舎の往復は車に乗ってくださいと言われるんです。

車に乗って5分か6分ぐらいの距離なのですが、車に乗ってくれと。

 それで私としては、毎日車に乗っとったのでは、もう社会のことも分かりにくくもなるし、帰りには酒ぐらい飲みに行きたいという気も起こ るのに、それもで きないようでは困ると思って、

車には乗らないと言ったら、総務課長が飛んできて、運転手1人を首にする気かと怒られた。それで、仕方ないから、朝だけは乗 りますと。帰りは荷物だけ乗せますから、

それを官舎まで運んでくださいというので、帰りは乗らないということをやったわけです。

 それで、そういう裁判所と官舎とのまったくの往復だけの生活というのが、日常生活になります。

 それから、高松家裁の一つ前の高裁の段階での話をしますと、それぞれ部というのがあります。私の場合だと刑事部というのに所属してい て、ちょっと詳しく は忘れましたが、刑事部が6部か7部かあった。

それから民事部が10部ぐらいある。一つの部に裁判官が3人から4人ということで、3人ならコの字型、4人 ならロの字型に机を配置して座っているわけなんですが、

そこでの日常の話というのは政治の話なんかは一切しません。

3年間おりましたが、政治の話し合いを した覚えは一切ありません。

 それで裁判長が60歳前後の、当時の私から見れば年寄りで、きのうの体調はどうであったかとか、夕べは寝られなくてねとか、そんな健康 の話ばかり。その ほかの話というのは、

彼はどこどこ地裁からどこどこの所長になってねとか、

人の出世の話。もうその二通り以外の話はほとんどないということです。

 それから、よその部の裁判官の顔を見るというのは、たまたまトイレで顔を合わせるぐらいで、普段の行き来はありません。月1回ぐらいに 判例研究会とい う、裁判官全員が集まる会があり、

顔を合わせるのはそのときぐらいです。

それ以外は、よその部に遊びに行ったりもしません。自分の部、裁判官4人構成の部 の隣に書記官、事務官という、10人前後の人数がおる部屋があって、それが一体となっているということです。

裁判官の飲み会

 それで書記官、事務官と裁判官との飲み会も、私が裁判官になって10年ぐらいまでの間はあったのですが、その後、最高裁からの指令ということで、 もう一切、部で飲み会をするということはななりました。

だから、10年ぐらいまでの間は、ややこしい事件なんかが終わった後は、打ち上げがあり、みんなで良かったなと飲み会をして、それから二次会で街へ流れていくというスタイルだったのですが、

そういうことも一切なくなった。

 それから、裁判官は裁判所のほかの職員と一緒に飲むべきではないと言われました。裁判官は管理職だから、管理監督する人とその対象の人 とが一緒に酒を交 わしたりするべきではないというので、

そういうことも一切なくなりました。だから裁判所の職員と一緒に飲むような裁判官は、評価が悪くなるわけです。しか し、私自身はもう辞めるまで、裁判所の職員と仲良く酒を飲んだりもしていました。

 それから会議ですが、例えば30人以下ぐらいの規模のところでしたら、長机の一番上座に所長が座って会議がされるのですが、席次は俸給 の高い人から順番 に並んでいくわけなんです。

もうそれがバッチリ決まっています。

ある日突然、自分より下座にいた人が、自分を飛び越えて上座に行ったなということがありま したら、彼が私よりも号俸が上がったんだということを意味するわけです。

 号俸でもう全部決まっていますから、なかなか所長の際にいる人が発言しているのを、それは間違いでしょうなんて、下のほうから言えるよ うな雰囲気ではな いのです。もうみんな、

分かりました、はい、そうですという、そんな会議です。

この裁判官の号俸というのがもうあらゆるところにあります。だから、会議だけじゃなしに職員の表彰なんかの席で、裁判官が列席してやる場合でも、号俸順に全部並んでいる。そういう生活です。

裁判官の市民生活

 それから、裁判官の市民生活ということですが、裁判官はほかの国の裁判官と違って、市民的自由というのは一切ありません。フランスや ドイツは労働組合を結成できるとなっていまして、

実際にも組合を結成していますが、日本ではそういうことはありえません。

もう10年も前でしょうかね。裁判官が青法協会員だったというようなことも、全部やめてしまいまして、そういうのもありません。そういう ことで、市民的自由もほとんどない。

 最近、高知の白バイ事件といって、卒業式の卒業記念の22人の生徒を乗せたバスに、白バイが横っ腹に当たってきたという事件があるので す。そういう事件 も見ていまして、

あの担当裁判官は恐らく運転免許を持っていないのかなと、

私は記録を見ながら思ったのですが、裁判官は運転免許を持っていない人も大勢お ります。

 私も50歳までは持っていませんでした。四国で弁護士をやろうと思って、はたと気がついたら、こんな四国では運転免許がないかぎりは、 動きが取れんの じゃないかと思って、

大急ぎで50歳で、年齢分ぐらいの費用が要るぞとみんなから脅されながら、何とか自分は規定の費用で通りたいと思って努力して通った のですが、そういうのを覚えています。

 裁判官は大都市におりますから、実際上は運転免許を持つ必要はあまりありませんので、運転免許も持っていない。要するに勉強以外の経験 はほとんどない。

 それから、だいたい裁判官は日本の場合は、一つのマンションの中に全部いるようなところがほとんどですが、そこでは裁判長の奥さんの権 限が、奥さん連中 の中でも、裁判長の奥さんが取り仕切っている。

草刈りとか階段掃除とかいうのを、裁判長の奥さんの命令でみんな動く。あそこの奥さんは動きが悪いとか何と か、あとで評判になります。いつも出てくるのが遅いとか、いろいろなことを言われるようで、

ノイローゼになるような奥さんもいるということです。

裁判の結論よりも処理能力

 裁判官の意識ですが、裁判官も学校時代から、学校秀才ということだけが自分の頼りなんですよね。私の同期で知っているのでも、例えば 四国の愛媛に 宇和島市という市がありますが、

宇和島市始まって以来の騏麟児、秀才だというので東大、司法試験現役で通って、裁判官になってきている人。そういうふう な、もう勉強については無茶苦茶よくできる。

だけど、勉強以外はあまり得意ではないという人が多いです。

 それから法律家としても、裁判官としては務まるけれども、検事のような仕事はできないし、もちろん弁護士にもなれない。裁判官以外には なれない。だけれ ども、自分は偉いんだという意識は人一倍強くて、

権力意識なんかも非常に強い。いっしょに裁判をやっていましても、裁判長とかほかの陪席の方にも出てきた 人にも、社会的地位が上の人には、つまり強い者には弱くて、弱い者に対しては非常に強圧的に出ていく。

 だから裁判に本来、服装は関係ないはずなんですが、やはり法廷へ出るときはパリッとしているのと、作業服でダラッと出てくるのとでは、 もう裁判官の印象が極度に違うんです。

服装なんかで、ものすごく差別的な発想をする。こういう傾向があります。ほとんどの裁判官はそれです。外見とかそういうことに非常にとら われるということです。

 それから、裁判官が優秀かどうかというのは、裁判の結論じゃなしに、事件をどれだけ早く処理したかということです。民事事件の場合でし たら、事件票とい うのが毎月回覧されるわけです。

特定の裁判官の名前は入れていませんが、A、B、C、Dとか、1、2、3、4とか打ってあって、これが誰かというのはその 票を見れば明らかに分かります。

 既存の事件を何件持っていて、何件新件でこの月は受けて、この月は何件処理したというのが一覧表に出ます。みんなその一覧表を非常に気 にしています。当 時は星取表といわれていたのですが、

それを見て、おれはあいつよりも大分未裁がたまってきているというのを気にするわけです。

 私が経験したのは、裁判官になって6、7年目の名古屋のときでしたが、当時の所長が月の半ばに、その星取表をみんなに配って見せなが ら、今月は先月より も処理件数が非常に少ない。

いまさら判決書け言うても間に合わんだろうから、みんな和解でしっかり事件を処理するように(笑)。月の二十日ぐらいになった ら、そういう訓示が裁判官を集めてされるわけです。

それぐらい処理件数というのがものすごく大事なわけです。

 私も何とか人よりも早くというか、それぐらい裁判官でまともにやっていきたいという気もあったわけですから、特に私は高裁へ入ったのが、同期のみんなよりもかなり早いのです。

それはどういうことかというと、当時、3回目に徳島地裁へ行った。ところが徳島地裁では、その前にラジオ商事件とか、森永ドライ砒 素ミルクの事件なんかがあって、ほかの事件が全部止まって、

ロッカーに何本ももうほとんど判決を書くだけの事件がたまっているのです。

 それで、生田君、君はこれを全部処理してから転勤してくれと言われて、当時は極めてまじめですから、言われたことはそのとおり受けてやるということで、 土日にほかの裁判官がテニスする中でも、

私は運動服に着替えていって、古い記録を、ほこりだらけの記録をひっくり返して、ほとんど転勤までに処理していっ た。そういう処理能力が買われて、高裁に行ったんじゃないかなと思います。

 それから、できるだけ自分の良心に反することはしまいと思っていたのですが、いまでもはっきりと覚えているのは、徳島から尼崎支部へ行 きまして、ここで、公職選挙法の戸別訪問が憲法違反かどうかという

有名な事件がかかっていました。

 それで、私はどういうことを結論にすべきか非常に迷ったのですが、私自身の保身も働き、それと支部長が裁判長で、尼崎の支部長というのは順当にいけば、次、所長に出られるのです。

その出世を妨げたくないというのもあって、憲法違反というのは合議で言わなかったのです。

 それで、あとでその支部長、裁判長から、生田君が憲法違反を言い出したらどうしようかと思って、困っていたけれども、生田君は言わない でくれたから、私も所長になれると喜んでくれた。

それで、その人は所長で出て行ったのです。そういうふうな妥協もあって、高裁の判事になっていったんじゃないかなと。だか ら、かなり自分としては忸怩たるものがあるわけなんですよ。

(2/3に続く)

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