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【現状分析から見えてくること】 三上 治

1) アベノミクスはどういう幻想か

 安倍政権の登場とともに内外での強い警戒があった。これは一言でいえば、保守と右翼の境の曖昧な政権がでてきたことであり、大きくはリベラルな部分が退潮している政治状況への危機感である。民主党の政権からの退場がリベラルな部分の政治的退潮に重なって見られていることでもある。この安倍政権は登場するや、否や憲法改正などの政治的動きは後景に隠して、経済政策を前面化することで、この空気を和らげようとしてきた。実際のところは憲法改正については第96条{憲法改正の手続き}に絞り、それを準備しているし、集団自衛権行使の法的整備などを進めている(註1)。
(註1) 憲法第96条は参院選挙の争点として浮上してきている。これは今後もっと全面化してくると推察できる。どうも安倍は体調が悪くて焦っているのではないか。これは僕の推察ではあるが…。

 ただ、経済政策を前面に打ち出してきたことが予想外だったために、最も無定見なメディアの一部が後押ししたこともあって人々を惑わしているというところである。

 このアベノミクスと言われる政策は基本的には2008年のリーマン・ショックといわれた世界経済の世界恐慌的事態に対する対応策の線にあるものであり、「みんなで渡れば怖くない」式の経済政策である。要するに、国家《高度資本主義の地域の国家》が貨幣を増刷して、景気回復を図るということである。アメリカもEUも金融危機に対して国家《中央銀行》が乗り出して救済し、危機からの脱出を図ろうとしている。その世界的な動きに安倍政権が追随しているのである。アベノミクスは1)金融緩和、2)財政政策、3)経済成長戦略という三つの政策を重ねているが、1)と2)はこれまで国家的な有効需要の創出として展開されてきた政策である。これで景気が回復し、3)に結び付くというのがこれまでのイメージであり、それを総合して政治的に打ち出したものがアベノミクスである。1)と2)は経済過程にたいして国家が介入に緩慢なインフレを喚起することで、景気循環における不況期を脱し、経済の成長になって行くというのが、これまでのビジョンであった。これの中心はいうまでもなくアメリカ経済であり、幾分かはEUが担った。それはドルやユーロと言われる基軸通貨が存在したからである。(註2)
(註2)この間に円は準基軸通貨といわれてきたが、その通貨としての信用をドルやユーロのように国家的な信用ではなく、経済力にあったことは特異であり、日米関係の中でドルの補完的な意味での準と言う意味と二通りの意味があったことを確認して置く必要がある。日本はかつてのような経済的信用があるわけではないのだから円の信用は落ちれば暴落状態になりやすい。

 ドルやユーロという基軸通貨の不安が円高を呼び込んでいたが、日本も世界の動向に歩調をあわせることで、円安への修正をしたのだが、根本的には世界的な金融緩和や財政政策が緩慢のインフレではなく、リーマン・ショックの再現に至り、より深刻化した世界恐慌的な事態を招くことは避けられない。ここでは日本では国債の暴落につながる事態が懸念されているが、円が基軸通貨ではないという問題が大きく作用するように思われる。

 結局のところ、1)や2)は、経済成長戦略に結びつかないという問題が世界経済、とりわけ高度化した資本主義国ではあるがそれがあらわれる。アメリカ経済はかつて世界経済の中心にふさわしい生産力、つまりは経済的力を有していたが、その世界経済での地位は低下している。アメリカの衰退と呼ばれるものだが、この根本には経済成長から停滞に入っているのである。アメリカの停滞ハイノベーションの停滞ともいわれるが、これは基軸通貨ドルの衰退《ドル安》として歴史的には現象している。アメリカ経済もかつては高度化という高成長経済にあったが、その展望をなくしているが、依然としてこれを前提として、1)や2)の政策をとり、実際のところは国内的な財政危機を結果させているだけなのである。

 アベノミクスの将来ははっきりしていて、その構想にある経済成長戦略に結びつかず、国債暴落も含めた財政危機を招くことになると思われる。世界経済の中で高度成長を経て高度資本主義に至った地域では高度成長から成熟経済への道が不可避になる。アベノミクスでいう金融緩和も財政政策も必要はないのであり、このような財政危機《国債の残高の加速的膨化》を招き、国民生活をインフレ《物価高》で直撃するだけである。資本主義が経済成長を経て高度化した地域ではもう高度成長をというのはできなくて、持続可能な成熟経済の展開が求められている。ここが現在の経済的難所ではあるが、それは現在の世界史な課題である。アメリカは金融経済と軍事経済でこれに対応してきたが、それは経済的な衰退を免れるものではない。アメリカ、EU,日本も金融緩和や財政政策で一時的な景気保持と国家的借金の増大と言う矛盾を繰り返し深めながら、高度成長以降の歴史的段階に対する道を切り開いてはいない。アベノミクスもこの矛盾にある。


2) 東日本大震災と原発震災

 2011年の3月に東日本大震災と原発震災が発生した。この時はまだ政権交代した民主党政権の時代であったが、その対応において政治的無能ぶりをさらけだし、安倍政権登場の露払いのような役割を演じた。だが、明瞭なことは安倍政権もまた、東日本大震災の復興や原発震災の解決ということをやれていないし、そのビジョウや構想を持ってはいない。先のところで述べたアベノミクスはこれらと関係のないところで立てられている政策である。この中で特に原発震災に絞って問題を指摘したい。というのはこれは現在も進行中の事件であるといえるからだ。

 原発震災は自然災害を超えた社会的災害であり、その意味では文明史的問題である。1)原発事故は原発の存在の非倫理性を明確にした(原発は人間の存在と相入れない)。2)原発が手をつけてはいけないエネルギーであるというのはよく語られることだが、これは人間と自然の代謝関係(循環関係)を破壊するからである。3)核解放は人間の科学的営みであるから、後戻りできないという意見もあるが、共同管理のもとにそれを制限し撤退することはあり得る。4)核エネルギーの産業化が問題なのであり、産業化の制限や撤退ということを考えなければならない。5)核エネルギーの産業化は安全神話に支えられてきたが、経済の高度成長と結び付き、そのエネルギーであった。この高度成長経済の転換と核エネルギーの転換は対応している。6)原発を推進してきた権力の構造が問題である。閉じられた官僚的権力《原子力行政》、経産省と原子力ムラ。7)なぜに、政府は再稼働にこだわるか。既得権益の現在の構造。独占体の問題。8)原発保存と核兵器の関係。

 1)~8)と箇条書風に書いたが、原発問題の根本はそれが人間と自然の代謝関係の破壊である。この問題は人間と自然の歴史的関係を象徴しているが、人間が科学によって自然を克服していくという考えの限界をどうするか、という問題である。人間にとって倫理が問題になるのは人間の心的存在(精神的存在)を対象にしたときであったが、科学と言う形態での対象的活動が問題になっている。科学と技術の領域である。これは文明史的問題であり、各エネルギーの産業化は高度成長経済という段階の問題である。権力の問題は民主主義の問題である。大きくはこの三つのことを問うことが上でいう社会的災害であるということだ。これが原発問題の突き出している現在の問題である。原発は廃止されなければならない。廃炉を含めその廃止にこそ着手しなければならない。福島第一原発事故の解決と地域住民に対する賠償、子供たちに対する健康上の対策は緊急事だが、それを含めてである。原発というエネルギーからの転換は地産地消型のエネルギーへの転換に結び付かなければならないし、それは成熟経済の段階に対応したものになる。原発推進は原子力ムラなどの官僚主導で進められてきたが、この閉じられた権力構造を変えていかなければならない。

 現在も福島第一原発の事故は収束してはいないし、それは現在も進行形であることは誰もが認識している。だが、安倍政権は原発再稼働→原発保存と言う戦略を取っている。これが問題である。いつ地震に会うかも知れない懸念の中でこうした戦略に固執している。これは電力産業という独占体とそれに連なる産業界と官僚《原子力ムラなど》が既得権益を守るためにとっている道である。このことは東日本震災や原発震災からの復興という作業を遅らせている原因にもなっている。原発再稼働戦略は復興のビジョンを曖昧にし、結局のところ中途半端な政策しか提起できないからだ。


3)戦後体制脱却論と構想できない日本の行方

 安倍首相の政治構想《主張》は当面するものとしては上のところで記したものだが、もう一つ見て置かなければならないところがある。それは戦後体制の脱却論である。戦後体制脱却論は左右の立場から出てくるものであるが、右というか、保守派の立場を代表する一つとしての安倍の考えはあると言える。安倍のナショナリズム的な主張は戦後体制脱却という考えに基づいていると言えるが、憲法改正に彼が固執するのはそこに理由がある。もっとも右翼や保守派の戦後体制脱却論は多分に矛盾に満ちたものである。この点は後に細かく触れるが、世界的にも国内的にも戦後の世界体制が行き詰まりなが、その先が見えないために戦後体制脱却論は現状に対する不満を吸い上げているところがある。

 安倍、あるいは維新の橋下も政治構想が吸引力を持つのもそこに理由がある。いうならば、現状、あるいは現在の社会の変革の響きがるからだ。

 逆にいえば左の面々が戦後体制脱却論を強く打ち出せなくなっており、社会変革のビジョンを失っていることを意味している。これは期待された民主党がなすべくもなく退場を余儀なくされたことでもある。社会変革を目指した面々が言葉(政治的ビジョンや構想)を解体され、茫然自失の状態に置かれていることがある。それだけ日本の未来を構想しにくいのだが、安倍や橋下らの言説が注目される由縁である。

 右翼や保守派の戦後体制脱却論は一つの傾向であり、アメリカとの自立的な関係を形成できるのか、どうかがこの根幹にあり続けたものだと言える。保守派は戦後アメリカ軍の占領政策の払拭を戦後体制脱却の基本に据えてきた。東京裁判の否定、戦後憲法の否定がその内容である。東京裁判史観からの脱却とか、自主憲法制定とかはその主張であった。これは保守や右翼の一つの傾向であり、流れだった。これに対して戦後体制を前提にして事を進めてきたのは保守派もあり、保守本流と呼ばれたのはこちらであった。保守派の内部の新米派と反米派、ナシヨナリスト派とリベラル派というように分類されてはきたが、実際のところ複雑で錯綜していたものだった。例えば、かつて安保改定を進めた岸信介はナショナリストであるたが、反米派とはいいがたく、また、その対極にあった吉田茂はナショナリストではなかったが、必ずしも親米派ではなかった。戦後のこうした保守の内部での対立は目立たなくなって、対アメリカ関係の自立と従属が錯綜しながら深まっているというのが実際である。

 戦後体制の脱却という基盤はアメリカの戦後の支配力の衰退の中で必然として出てくるが、同時にアメリカは戦後体制の保持にあり、その枠組みの維持をめざす。日本の保守は国内的には戦後体制の脱却を言うが、国際的には日米同盟を強調する。国内で東京裁判史観の脱却や憲法改正をいうが、国際的には日米同盟強化《戦後の世界の枠組み保持のアメリカに従属》という矛盾した方法をとる。アメリカは日本の政府や政党が国内で戦後体制脱却論を言っても許容するが、アメリカとの関係や戦後世界の枠組みに触れれば厳しい対応になる。

 戦後体制脱却は世界的な展望(構想)なしに不可能だが、世界的展望ということは戦後体制という歴的段階を止揚していくことである。戦後世界体制を超えるとは高度化した資本主義を超えることであり、これは経済成長から成熟経済への道として語られることだ。さらに米ソ支配からアメリカの一極支配へと進んだこの世界関係を変えて行く道であり、例えば、東アジア共同体構想などはそのひとつである。アメリカの一極支配の世界関係を変えること、日米関係で言えば日本に自立を含めた新たな相互関係をめざすことだ。これは世界的な意味での戦後関係を止揚していくことであり、戦前への回帰ではない。例えば、東アジア共同体構想は戦前の大東亜共栄圏構想への回帰ではない。戦後関係を踏まえたものである。日本の保守は世界関係では戦前への回帰ということも含めて、アメリカの枠組み(日米同盟)以外の構想を持ってはいない。

 日本の保守に戦後体制脱却論は基本的には日本の国内体制においてのみそれを構想するという限界がもともとあるが、その場合でも戦前への回帰という構想しか描けない。これは基本的には矛盾した展望(構想)である。日本の戦前的な体制への回帰は戦後のアメリカ占領政策への反動的対応であり、彼らがそれを受け入れその基盤の中で戦後の歩みを進めてきたことを無視している。アメリカの戦後占領政策が戦前の日本の国家権力の進めた政治に対する批判として持った意味を無視しているのである。アメリカ占領政策の脱却とは戦前への回帰ではなく、その止揚なのである。アメリカの占領政策は戦前の日本の政治の否定として出てきたが、占領政策の否定とは戦前への回帰ではなくて、それを乗り越えて行くところの否定なのだ。単純な否定ではなくて、否定の否定である。ここが肝心なところである。例えば、占領政策で生まれた憲法《戦後憲法》を大日本帝国憲法に戻すのではなく、その国民主権的な言葉を現実化し、日本の国民の憲法にすることだ。戦後民主主義を真の民主主義に止揚していくことにほかならない。アメリカの占領政策の残滓としてあるアメリカと組んだ官僚の権力支配を変えることだ。戦後体制が戦前の日本の国家体制を否定したことを評価し、これを歴史的な段階としてその肯定しながら、現在から克服して行くのでなければ、戦後の生み出した肯定面からの反発もある。保守派であってもこうした戦前回帰的な言動に批判するリベラル保守はそれなりに基盤があって、今は影が薄いようにみえてもそれなりの力はある。彼らは戦後体制の否定と言う場合に戦前への回帰をいうが、これを支持するのは社会の中の少数部分であり、彼らが錯誤するほどそれは強くはないのである。

 僕らもある意味で戦後体制脱却論の立場に立っている。これは戦前への回帰ではないし、そういう反動ではない。例えば戦後民主主義の批判でもその肯定的要素を含みながら否定であり、直接的でより実質的な民主主義の実現を目指すのであり、戦前的な強権体制への回帰ではない。もっとも歴史的な回帰ということならもっと深い立場でそれをなす。例えば沖縄のことを考えればこれは明瞭である。天皇制の日本という歴史的枠組みを超えたものがその構想である。

 これについては別の機会に論じたい。アメリカからの自立(従属からの脱却)と言っても戦前の日米関係に回帰するのではなく、アメリカの戦後的一元支配の衰退の中で相互の自立的な関係を求めるのである。尖閣諸島をめぐる日本と中国の紛争のようなものにしても民族主義的、国家主義的な解決を求めないのである。アジアでの共同関係を求めるにしても戦前の大東亜共和圏の復帰ではなく、東アジア共同体は新たな関係の構築をめざす。また、憲法問題も帝国憲法の復活ではなく、国民主権の憲法の実現を志向する。戦後民主主義の直接民主主義的な深化である。ただ、こうして左派的な展望(構想)が力強さを欠いているがために右の脱却論が目立つのである。

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