はじめに
私たちはなぜ小沢一郎を支援するのか
一九六〇年(昭和三五年)六月、国内とりわけ東京都心は騒然としていた。岸内閣による日米安保条約改定の強行採決は「対米隷属を固定化するもの」であり「民主義の破壊」だとして、学生や市民が参加したデモ隊が連日、国会議事堂に押しかけていた。
都立小石川高校の私たちも、社会主義研究会を中心とする有志で国会デモに参加することを決めた。いよいよ国会に向かう日、教室で級友の小沢一郎君が私に声をかけた。「伊東君、気をつけて行けよ」。「わかった。ありがとう」と答え、私たちは国会に向かった。六月一五日、議事堂正門前で東大生の樺美智子さんが死んだ。
それから十数年経って、ある人からこういう話を聞いた。あの日、東京は革命前夜の様相だった。警察はデモ隊の襲撃に備え、政府要人の自宅の警護を行いつ、その家族には地方への「疎開」を求めていた。当時、小沢君の父・小沢佐重喜氏は岸内閣の主要閣僚の一人だったから、小沢家の人々も選挙区の岩手に逃れていたという。当然、長男
である小沢君も退去を求められたが、彼は頑として東京の家を動かなかった。「坊ちゃん、とにかくこの家から出てください」と説得する秘書や警官に、彼はこう言った。「今、僕の親父は国会の中にいる。僕だけが逃げるわけにはいかない」。
そしてさらに三十年余が経った平成二一年(二〇九年) 、小沢君は民主党を率いて、長年の対米隷属政権である自民党を倒し、政権交代を成そうとしていた。ところがその頃から、マスコミを動員した猛烈な「小沢攻撃」が始まった。「金の疑惑」という攻撃は政権交代後も続き、「疑惑」は検察の不起訴決定によって晴れたかと思いきや、今度は「検察審査会」なるもの度重なる「審査」という執拗な攻撃が始まった。
高校卒業後、私は小沢君と何度か会う機会はあったもの、特別親しくしてきたわけではない。むしろ大学卒業後、田中角栄氏の秘蔵っ子となり自民党議員として活躍する彼と、学生運動に飛び込み、司法試験を経て市井の弁護士となった私とは、政治的な立場は大きく異なると考えていた。けれども、彼が民主党代表となり政権交代が見えたときから始まった一連の異常な「小沢攻撃」や、その存在が極めて不明瞭な「検察審査会」の「審査」は、一市民としても、また法律家としても首を傾げざるを得ないことばかりである。おかしい、何か背後にあるのではないか…そんな感を抱き、小石川高校の同窓生やかつての学生運動の仲間に「小沢一郎は、あれほど攻撃されるべきなのか」と問いかけたところ、みな一様に疑念を持っていた。「それならば、小沢一郎を応援しようじゃないか」というのが、私たちが「小沢一郎議員を支援する会」(当初は「小沢一郎幹事長を支援する会」)を作ろうとしたそもそもの発端である。
「よりによって、日本で一番嫌われている政治家・小沢一郎を支持するとはどういうことなのだ」と、私も会のメンバーも、よく聞かれる。「大方、小沢から金でもらっているのだろう」と言われることさえある。無論、我々の運動は、手弁当の「勝手連」であり、小沢一郎の政治団体とは一切の関係がない。
会のメンバーや賛同者は、小石川高校の同窓生のほか、全学連、全共闘の元闘士、労働組合や市民運動家、一般の主婦、学生、会社員などさまざまである。中には、政治家・小沢一郎の熱烈な支持者もいるが、それ以上に多くの「政治家としての小沢一郎とは距離をおく」人々がいる。一貫して日本共産党を支持し、今もそうしているという人もいれば、憲法九条の堅持を主張するグループに属する人もいる。それ以外にも、小沢一郎とは、あるいは民主党とは異なる思想の人々が、この会に多数参加、賛同しているのだ。
それはなぜか。私たちの会のメンバーと賛同者は、「小沢攻撃」が持つ怪しさや、その背後に見え隠れする力に気づき、「小沢攻撃」に便乗することはもちろん、それを看過することは、日本の真の民主義を阻害することになるという危機感を持っているからにほかならない。
私たちはなぜ小沢一郎を支援するのか。それは、日本の真の民主義を育て、守るためである。
五〇年前、小沢君と私の立場と行動は異なった。そして今も、異なる。けれども、彼を排除しようとする力は、私たちが戦うべき相手と同じものであると私は考えている。本書は、その趣旨をご理解いただくために、私たちのこれまでの主張と発信文書をまとめたものである。一人でも多くの賛同が得られることを祈念して止まない。
二〇一一年三月三一日
「小沢一郎議員を支援する会」 代表 伊東 章