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安倍元総理の国葬を今こそ糾弾すべき

小沢一郎議員を支援する会
代表世話人 伊東 章


1、2012年12月に2回目の総理大臣に返り咲いた安倍晋三は、その後ほぼ9年間にわたり日本の政治を壟断し、お仲間とともに甘い汁を吸い続けた。
  しかし、その報いというべきか、2022年7月には暴漢の凶弾に倒れ、その人生を閉じた。
  祖父(岸信介総理)の代から強力に肩入れしてきた、反共集団統一教会の関係者によって暗殺されたこと自体、皮肉なことと言わざるを得ない。
  とは言え、彼が総理就任中に次々と打ち出した政策は、いわゆる「アベノミクス」の名称を冠され、長い間日本を誤った道に引きずり込み、日本の失われた30年を支えてきた。
  「アベノミクス」に象徴される国の政策は、その後の菅、岸田両内閣によっても受け継がれ、その弊害は国の津々浦々にまで及び、今や我が国は経済的にも政治的にも社会的にも、先進国とは呼べないほど疲弊し堕落し切っている。
2、それにも拘らず、菅総理を継いだ岸田内閣は、大多数の国民の反対を押し切って令和4年9月には大々的に安倍元総理の国葬を強行し、安倍の神格化を図った。
  その影響などもあって、全国の書店には、いまだに安倍を神格化し安倍をメシの種にするネトウヨの雑誌が氾濫している始末である。
3、ところが令和5年11月に入り、自民党の各派閥の政治資金パーティーにおける収入が大半は政治資金収支報告書に記載されず、各派閥の所属議員がそれぞれ数千万円単位を裏金として隠匿、費消していたことが発覚するに至り、各派閥が弥縫的に解散を宣言し始める事態となった。
  派閥の中でも特に、安倍が長期間総理、総裁の地位にあった影響で最大派閥となった安倍派の政治資金パーティーの売上高が際立って大きく、派閥の多くの幹部が裏金づくりに直接関与して、莫大な裏金を手に入れていたことも判った。
  もちろん、裏金づくりは自民党のほぼ全派閥、全議員が関与しており、ひとり安倍派の議員に限らないが、その根幹には、長期間政権を独占し、自身とその仲間内の利益のために「アベノミクス」を利用し国民の生活を破壊してきた安倍元総理の思想、政治行動が存在することを、忘れてはならない。
  従って、現在検察から刑事責任を追及されている議員が最も多い派閥が安倍派であることは当然である。
4、結局のところ、安倍元総理の約9年間の政治的実績というものが、日本の社会、経済、文化の発展などではなく、自身と仲間内だけの利益のためにのみ国の予算と組織を悪用、独占すること、ひと言で言えば、日本を無法国家にしたことに尽きると言える。
  そのような実態をまったく無視して、安倍を「大きな実績を様々な分野で残した、卓越したリーダーシップと実行力で首相の重責を果たした」などと持ち上げて、国民大多数の反対を押し切り、巨額の国費を投じて安倍元総理の国葬を強行した岸田内閣は、一体、悪徳安倍元総理の国葬について、いかなる弁明ができるのであろうか。
  既に終ったのだから後からとやかく言うべきでない、という言い訳は、国政を担う立場の者には通用しない。
  野党は、改めて安倍元総理の国葬問題について、岸田自民党を厳しく追及すべきである。

 

以 上

「反共」という名の反人民主義

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「反共」という名の反人民主義

― なぜ野党共闘をしないのか ―

伊東 章

 

1、

 本年10月24日に行なわれた共産党(志位委員長、小池書記局長、穀田国対委員長)との会談により、立憲民主党の泉代表から「次の総選挙では(共産党との)連携と力合わせ(協力のこと)をしていきたい」との申出があり、双方が合意した。

 ところが、それから日も経たない連合(芳野会長)と立憲民主党(泉代表)の話いで、芳野会長が「共産党と共闘する立憲党の候補者には、連合として応援しない」と宣言されるや、泉代表は「10月24日の共産党との話合いは、単にごあいさつに伺っただけで(選挙協力を約束したわけではない)」と弁明した。

 そして、11月14日に至ると、次に国民民主党の玉木代表が、立憲民主党が共産党との間で次の総選挙に向けた協力を話し合ったことに反発して「共産党と協力する政党とは協力できない」と強調した。

 立憲民主党の泉代表、国民民主党の玉木代表の上記対応は、いずれも選挙母体となっている連合の芳野会長の反共的立場を忖度したものである。

 

2、

巷間言われるところでは、現連合会長の芳野は、強烈な反共主義者であり、統一教会の影響を強く受けているとのことである。

 そもそも、労働組合というものは、資本主義社会の中で、圧倒的に力の強い資本家(経営者)からの抑圧を受け、搾取され、貧しい生活を強いられている労働者の立場に立って、少しでもその生活を向上させ、基本的権利を拡大させることを目的にしているものである。

 従って、労働組合の役割、考え方というものは、自ずと社会主義的なものになるのが当然である。

 そして、共産主義という社会は、社会主義が進化し、生産力と人々の道徳が高度に発展し、個人が完全に解放される社会のことで、その主役となるのは、社会的弱者である労働者であり、大半の国民なのである。

 つまり、共産主義(社会主義)というのは、本来労働者のための思想であって、それ以外のなにものでもない。

 にも拘らず、労働者の組織である連合が、ハナから共産主義に敵対するということは、即ち、それは労働者の団体でもなければ、労働者を守るための組織ではない、ということである。

 一説では、連合の芳野会長は、アメリカのCIAの肝いりで結成された反共政党である旧民主党が設立した富士政治大学校とかいう反共労働者研修団体に入って反共教育を受けたバリバリの反共主義者であり、それがまだ未成年の頃からジューキミシンの労働組合の専従員から成り上がって、連合の会長になってしまったそうである。

 本来は社会主義の政策を目指すべき連合がこのような反共主義にコリ固まった労働貴族を代表者に祭り上げてしまったことが、まずもって大きな過失であるが、本来労働組合とは一線を画すべき政党のリーダーが、このような反共主義者の戯言に脅されて右往左往していることも大きな過ちである。

 

3、

 現在の日本の政治状況の中で、自公政権に代わる政権を実現するためには、自公を除く主要な野党が一本化して立ち向かう以外に方法がないことは、小さな子供にでも容易に判ることである。

 そして、過去の国政選挙の結果を見ても、自公以外の野党が一本化して闘えば、容易に政権交代が可能であることは、2009年の経験から明白なことである。

 2009年で民主党が308議席を獲得した前後の総選挙の結果を見れば良い。 2005年9月の総選挙では、自公が327議席に対して、民主党と共産党、社民党合計で129議席であった。

 しかし、2009年の総選挙では、自公が140議席に対し、民主が308、共産、社民、国民新が19、与党合計で327議席であった。

 そして、2012年の総選挙では、自民294、公明31で計325議席、他方民主は57議席と惨敗している。

 このように、小選挙区制の下では、多数派と少数派は、劇的に交代しうるのである。

 立憲民主党の泉代表は、共産党との選挙協力、連携をうたいながら「次回選挙で自公の当選者を最大限減らす」とか「次の選挙では政権を狙わず、ホップ・ステップ・ジャンプで5年先位での政権実権交代を目指す」などと間抜けた発言をしている。

 そして、岡田幹事長、安住国対委員長などもこれを支持している。

 一体、この連中は、真面目に政治を行なう意思があるのか、と言いたい。

 今、国民が物価高、格差、貧困であえいでいるのに、手を差しのべようとしないばかりか、あと5年間辛抱して待ってくれ、というのならば、率直に言って、今すぐ政治家の看板を下ろしてくれ、と言いたい。

 前述のように、野党がきちんと連携、協力すれば、いつ、何時選挙があっても政権交代を実現することは可能なのである。

 にも拘らず、それに向かって努力をしない、ということは、政権交代をしたくない、政権を奪取してはならない事情が有る、と考えざるをえない。

 

4、

 連合の芳野会長は、2021年10月に前の神津会長の後を継いだが、就任早々から自公安倍政権にスリ寄り、文字通り自公政権のメカケのような存在になり下がった。

 本来であれば、労働者の権利、生活のために臥薪嘗胆すべきなのに、日夜、権力政党の重鎮や財界幹部との会食に付き合い、本来の労働運動発展のためには何一つ貢献していない。正に労働貴族そのものである。

 そして、労働者の権利、地位向上のための運動(ストライキなど)を一切やらない代わりに、政権、経営者の旦那に媚びを売って、労働者の賃上げをお願いしている始末である。

 その見返りとして、労働者、労働組合には労働運動をしないよう指導し、かつ野党勢力に対しては「共産党とは絶対連携しないように」「政権交代などは目指さないように」と指示しているのである。

 つまり、今の連合又はその指導者である芳野は、自公政権、財界、ひいてはアメリカの手先として日本の労働運動ばかりか政権交代をも妨害しているのである。

 

5、

 芳野連合会長の行動を見れば、連合(又は会長)の思惑というものが一目瞭然でありながら、立憲民主党、国民民主党の幹部が、それに唯々諾々として従うのは、何故なのか。

 正に彼ら自身が芳野会長と同じ考え方を抱いているからに他ならない。

 つまり彼らは、一見労働者、国民の味方面をして選挙の際の票を求めるものの、自分達が当選してしまうと、労働者や国民の利益を無視して政府や財界(原発業者など)のために尽力するのである。

 彼らには、真に労働者や国民のための政治を実現しようなどという考えは毛頭無いのである。

 彼らの頭の中は、労働者や国民の生活、権利の問題ではなく、いかに自分達が立身出世するか、が優先しているのである。

 この点では、自公政権を担う面々と全く変らない。

 かつて、2009年の民主党政権樹立後、同政権の大臣、副大臣などをつとめた松本剛明、細野豪志、長島昭久などは、その後野党生活に我慢できずに自民党入りし、松本などは今や自公政権の大臣にまで納まっている。

 国民民主党の玉木代表なども、民主党時代には小沢一郎議員の薫陶を受けながら、今や一刻も早く自公と合体、連合して大臣になりたくて仕方ないのである。

 

6、

 要するに、野党議員、労働組合幹部と言いながら、その実態は時の権力におもねり自己の栄達のみを目指す輩が少なくない、というのが現実の政治状況なのである。

 野党が必死に追及すればいつでも政治権力を獲得することができるのに、そのことに注力せず、むしろ野党を分断し、統一を妨害するというのは、つまるところ彼らが労働者や国民の味方ではなく、一見味方面をして敵の望むことに協力しているに過ぎないのである。

 従って単に野党であるから、という理由だけで彼らがすべて労働者、国民の味方である、と決めてかかるわけにはいかないのである。

 問題は、連合にしろ、野党にしろ、労働者、国民の代表者、味方面をしながら敵を利するような行動をする輩を、何故労働者、国民が支持、支援するのかということである。

 この点に労働者、国民の弱体化、愚かさを認めないわけにはいかない。

 労働者、国民が正しいものの見方をできれば、常に理想の政府、政治を期待できるわけであるのにそれが出来ていないために常に自分達の首を絞める政府、政治家の跋扈を許しているのである。

 

7、

 結局のところ、労働者、国民がいかにして世の中のことを正しい眼で見、考えることができるか、にかかっていると言える。

 このことは、国民に対する教育の問題として考えざるを得ない。

 国民は、産まれた途端に肉親、友人、学校、マスメディアを含む社会から日常的に教育を施されている。

 それらの情報源は基本的には各時代の権力者及びそれに追随する者であり、それらは権力者に都合の良い情報を洪水のように垂れ流している。

 その中で歴史認識も世界観、道徳観も作られてゆく。

 これに抗して国民の立場に立った正しい世界観を身に着けることは、並大抵のことではない。

 しかし、そのことを成し遂げない限りは世の中を変えることは不可能である。

 国民の100%とは言わなくとも、せめて5%ないしは10%考え方が変れば、必ずや世の中は変らざるを得ない。

 私たちが日頃からこのようにささやかな活動を続けることによって、日々1人でも2人でも正しいものの見方をする者を増やし続けることが、いずれ公正で正しい社会の実現に繋がることを確信すべきである。

 

以 上

大メディアは権力の手先である(2)

小沢一郎議員を支援する会 

代表世話人 伊 東   章

 

「メディアの中立性とは何か?」

 

1、わが国のテレビ、ラジオは放送法によって規制されている。

放送法では、放送の目的を、日本の健全な民主主義の発達に資するために、不偏不党の立場で表現の自由を確保するものとしている。

憲法第76条では、「すべて司法権は裁判所に属し、裁判官はすべて良心に従って独立して職権を行ない、憲法と法律にのみ拘束される」として、司法権、裁判官の独立を謳っている。

どちらも、日本の民主主義を支えるべき制度として極めて立派な位置づけをされている。

ところが、その実体は、どちらも本来の存在目的とはかけ離れて日本の民主主義を破壊する役目を担っているという点で極めて酷似している。

2、そもそも、日本のメディアを牛耳る日本放送協会(NHK)の経営委員と裁判官の任命権は事実上、内閣総理大臣が握っているということである。

NHKの経営委員は、国会の両議員の同意の上で内閣総理大臣が任命し(放送法第31条)、最高裁の裁判官は内閣が任命する(憲法第79条)。

最高裁長官は、内閣の指名に基いて天皇が任命することになっている(憲法第6条)が、天皇の任命権は儀礼的なものであるから、実質は内閣が任命しているに等しい。

そして、言うまでもなく、内閣、内閣総理大臣というのは、時の権力を保持している多数党(与党)によって選出されるのであるから、つまるところ、NHKの経営委員も裁判官も、時の権力党(与党)によって任命されていることになる。

もはや、この時点でNHKの経営委員や裁判官は中立でも不偏不党でもないのである。

要するに、NHKの経営委員も裁判官も、時の権力によって選別され、任命されたものである以上、任命された段階で最早中立性は失なわれているのである。

このような制度上の有り方を全く無視してメディアの中立とか裁判官の中立性とかを論ずることは全く無意味なことである。

3、NHKは、一種の国営放送であることから時々の国の支配者に利用されることは

十分理解できるが、では民間放送についてはどうなのか。

民間のメディアも一応放送法による規制を受けているから、表向きは不偏不覚、放送の自由、独立が義務づけられている。

しかし、そもそも民放の経営は、基本的に民間企業、特に資金力を有する大企業に依存している。

そして、大企業というのは現在の政権を経済的に支える部隊である。

言わば民放は、時の政治権力を支える大企業に、その経営を依存しているのである。

そのような民放が、正しい意味での放送の中立、公正、不偏不党を貫けるとは到底考え難い。

戦後の間もない時期は、企業、メディアも今程発展していなかった上、労働運動、社会運動が隆盛を極めていたため、メディアの偏向というものが見えなかったものと思われる。

もちろん、メディアは情報を流布するのが役割なので、政治、経済、労働、社会の各問題について大きな出来事があれば率先して報道するのは当然だ。

しかし、スポンサー及びそれと連なる権力に不利益な報道は、可能な限り抑制するという最後の一線は絶対に譲らない。

メディアが一体誰の為に存在するのかを考えれば、そもそもメディアに対して期待を抱くこと自体が大きな誤りなのである。

私達としては、(例えば)日刊ゲンダイなどのように私達にとって有益な情報を提供してくれるメディアを育て、発展させることによって巨大な権力、大企業に対抗するしかない。

 

 

大メディアは権力の手先である(1)

小沢一郎議員を支援する会 

代表世話人 伊 東   章

 

1、中国の女子プロテニス選手彭帥の言動をめぐってマスメディアが一斉に騒ぎ立てている。

これに先立ってアメリカの大統領やメディア、アムネステイなどが彭帥をめぐって中国の人権侵害を弾劾している。

そのきっかけは、彭帥選手が、かつて中国政府の高官(張高麗副総理)と不倫関係にあったことを自身のブログで告白した後、公けの場に顔を現わさなくなったことである。

アメリカや各国のメディアは、中国の政府筋が都合の悪いことを隠すために、彭帥を拉致、監禁しているのではないか、とし、これが重大な人権侵害である、と言っているらしい。

なる程、全体主義中国であれば、政府に都合の悪いことにフタをするために、発言者の口封じをすることは十分に有り得ることだろう。

しかし、この問題が、すべての大メディアが一斉にニュースで取り上げる程重大な問題なのであろうか。

そもそもは、彭帥選手が国のエリートである副総理と不倫関係に陥り、それが何かの都合で破綻した後、その問題をブログで愚痴ったというだけの事件である。

自身の不倫問題を堂々とブログで公表すること自体恥知らずな所業と言うべきであるが、このような所業が中国々内で、どのような処遇を受けるかは、本人が十分理解していると言うべきである。

ましてや、彭帥は、中国と言う国家に育てて貰ったプロスポーツ選手であれば、それが国のメンツをキズつけるような言動をすれば、それなりのペナルティーを与えられても止むを得ないとも言える。

いずれにしろ、この程度の問題を大げさに報道し、今さら中国がとてつもない人権侵害をしているという西側、特に日本のマスメディアの報道ぶりは異常と言うほかない。

これによって国民の嫌中感情を煽ることが目的としか思えない。

2、そもそも、アメリカや日本のメディアが、この程度の問題で中国の人権問題を云々する資格があるのだろうか。

アメリカは、殆ど理由もなくイラクやアフガニスタンを侵略し、両国の政治、社会をメチャクチャにしたまま放り投げ、それに対する謝罪も反省も全くしていない。

女性問題で限っても、2015年にTBSテレビのワシントン支局長の山口敬之にレイプをされたジャーナリストの伊藤詩織さん事件について、帰国時空港で逮捕状が執行される直前に安倍総理のツルの一声で逮捕、立件が見送られた事件、2021年3月に名古屋入管事務所で、事実上虐殺されたスリランカのウィシュマさん事件等々、日本には数多くの人権侵害事件が惹起されている。

こうした人権問題に、日本のメディアは真剣にとり組んできたのであろうか。

  どちらかと言えば、日本のメディアは、こうした人権侵害に対しては、むしろ権力寄りの姿勢を崩していない、というのが実態である。

ここ数年続いているミャンマーの軍事政権による弾圧の問題についても、日本の

メディアは明確な反軍事政権の立場をとっていない。

それはつまり、ミャンマーの軍政と深いつながりを持つ日本政府、日本企業の姿勢と軌を一にしているということである。

WTOを初め、北京のオリンピック、テニス大会をボイコットする動きが栄んで、日本のメディアもこれに無差別に同調している。

では、日本における数々の人権侵害を理由に、日本でのオリンピック開催中止を、メディアが主張したであろうか。

結局のところ、メディアの姿勢は、現政権の姿勢、政策に追随しているだけである。

中国のプロテニスプレイヤーをめぐる、メディアの非難合戦は、要するに、日本における嫌中嫌韓感情に便乗したものであり、何の普遍性もない。

要するにメディアというのは、単なる権力の手先に過ぎない、と言うことである。



商業主義的スポーツへの反旗

「商業主義的スポーツへの反旗」

-大坂なおみのインタビュー拒否問題-

 

小沢一郎議員を支援する会 

代表世話人 伊 東   章

 

1、女子テニス界のスター、大坂なおみが、2回戦に進出が決ったところで全仏オープンテニスを棄権した。

理由は、試合後のプレスインタビューを拒否したことから、世界四大タイトル戦の主催者側から、出場停止処分を仄めかされたことであるらしい。

私が、このニュースを聞いて真先に考えたことは、正にこれが現代のオリンピックの構図を如実に表している、ということである。

ひと言で言えば、スポーツ界とマスメディアの癒着、というよりか、マスメディアによるスポーツの支配、ということである。

私が前回のブログで述べたのは、現代におけるスポーツは、マスメディアを含めた企業に、完全に支配されている、ということである。

企業、マスメディアの発展によって、それ迄は純粋に、それを楽しむ個々人のためのスポーツであったものが、企業のためのスポーツ、マスメディアのためのスポーツに変質した。

その究極の姿がオリンピックである。

平和のための祭典とか、国境を越えた友愛などというおためごかしのスローガンの下で、スポーツもスポーツ選手も、企業やマスメディアの金儲け主義のために利用されている。

そのために、企業もマスメディアも、一般の労働者と比較しても破格のギャラ、 賞金を未熟な若者に支払う。

従って、オリンピックの開催が、どんなにコロナ禍を増大させると判っていても、主催者も選手も、絶対にオリンピック中止、出場停止とは言わない。

 

2、多くのスポーツ選手は、試合に勝っても負けても、マスメディアでの露出を喜ぶ。

それは、様々な意味で自身の立身にとって大なり小なりメリットとなるからである。

そして、マスメディアもスポンサーも、自分達が支配する選手をマスメディアで広く拡散することによって、企業的な利益につなげている。

ある意味で、選手がマスメディアの要請に応じてマスメディアに露出することは、双方の共通した利益とも言える。

しかし、大坂なおみのインタビュー拒否は、そうした、スポーツ、スポーツ選手を支配する体制への痛烈な反抗と思える。

もちろん彼女とて、マスメディアやスポンサーの恩恵によって、現在のスターとしての地位及び富を獲得したのであるから、一概にそれらを敵視するわけにもいかないだろう。

場合によっては、これまで築いたテニス女王大坂なおみの地位を失うことになるかもしれない。

それは、マスメディアやプロダクションに楯ついた俳優やスターが失墜せざるを得ないのと同じ構図である。

大坂なおみの問題は、東京オリンピックと同様、スポーツ、スポーツ選手と国、企業、マスメディアの関係について大きな問題を国民に提起したと言える。

何度も繰り返すが、スポーツとは、個々の人間が人間活動の一環として行なうべき人間性の発露であり、それがカネ、権力、名誉などと結びつくべきものではない。

それは、老若、男女、貧富の差無く、万人が等しく楽しむものであり、かつ健全に行なわれるべきものである。

金と汚辱にまみれた現代におけるオリンピックを初めとするスポーツは、およそ本来のスポーツのあり方からは対極にあると言える。

願わくば、大坂なおみが、東京オリンピックへの出場をボイコットすることを切に望むものである。

以 上

オリンピックは反人民的祭典である

「オリンピックは反人民的祭典である」

-スポーツと欺瞞に満ちたオリ・パラリンピック-

 

1、「スポーツは、人々が楽しみ、より良く生きるために、自ら行なう自由な身体活動である。スポーツをする人は、美しいスポーツマンシップが生まれることを求め、健康な身体を育てることを目的とする」 

  スポーツに関するこの定義は、日本体育協会スポーツ憲章によるものです。

この憲章のスポーツの定義は、真に正しいものです。

スポーツとは、国民の1人1人がすべて、自分で楽しみ、より健康で豊かに生きてゆくために、自分で行なう、何物(カネや名誉等)にも束縛されず、自由に行なう身体活動なのです。

2、人類の歴史の中で、スポーツというものが生まれるのは、かなり遅く、近代以降と言われています。

古代(ギリシャ、ローマなど)では、剣奴による闘剣とか、戦車競争など、戦争に直結した体力、技倆の競争が主たるもので、純粋に人間1人1人の健康増進のために身体を鍛えるという考え方はありませんでした。

このように、戦争のために人間の(主として男子の)体力を強化するという考え方は、ほぼ近代まで疑問を抱かずに認められていました。

そのため、スポーツというものが戦争、戦闘行為と直結していたことは否定できません。

そのことは、戦前、戦中の日本軍国主義社会における体育、教練などを見れば一目瞭然です。

そこでの体育の目的は、主として敵を殺傷、せん滅するための体力づくりであり、そのための柔・剣道などの技術修得でした。

敵を殺傷、せん滅するための身体鍛錬、技術の養成を最も理想的に行なえるのは、軍隊における過酷な教育です。

このように、戦争というものと体育、スポーツというものは、極めて強いつながりを持っているのです。

3、近代に入り、社会の経済力が強まり、一定の余力が生まれるとともに、娯楽の要素の強い本来のスポーツが生まれてきます。

イギリスにおいて生まれた卓球、ホッケー、テニス、サッカー、ラグビーなど、又、その後アメリカで改良されたアメリカンフットボール、野球等々、基本的には軍事とは関係のないスポーツが次々と生まれ、それとともにそれまでは特定の者にしか許されなかったスポーツが大衆のものになってきたのです。

このように大衆が等しく、健康のためにスポーツを楽しめるようになるためには、すべての大衆がスポーツを楽しめるだけの経済的、時間的余裕を持つことと、貴族であれ軍人であれ一般大衆であれ、誰もが差別なくスポーツに関与できる条件がなくてはなりません。

つまり、すべての大衆が等しく、それぞれが好むスポーツに参加するためには、社会の中に正しい意味での民主主義が存在することが必要なのです。

4、フランスの貴族であるクーベルタン男爵によって提唱されたオリンピックが、1896年に開催されました。

オリンピックの究極の目的は、スポーツを通じた相互理解、友好の精神による世界の平和です。

古代ギリシャ時代から続く、世界の戦争を、オリンピック精神で止揚したいとするクーベルタン男爵の発想を理解したいとは思いますが、現実には、第1回目のオリンピック(1896年)以降、続く米西戦争、日露戦争、第一次世界大戦(1914~1918)、第二次世界大戦((1939~1945)、朝鮮戦争、ベトナム戦争(1964~75)、湾岸戦争(1991)、イラク戦争(2003~2011)、アフガン戦争(2001~)と、オリンピック精神などは全くと言って良い程空疎なものとなっています。

オリンピックを創始したクーベルタン男爵自身は、第二次世界大戦が始まる直前にスイスで没しているため、まさか自分が創始したオリンピックの後に、世界中でこれだけ多くの大戦争、大量の人類殺戮がなされているとは、夢にも思わなかったことでしょう。

結局のところ、単純な平和主義によって真の平和が実現できるわけもなく、スポーツを通しての世界平和などというものが、全くの幻想に過ぎないことが歴史上既に証明されているのです。

5、前述のとおり、スポーツというのは、1人1人の市民が、より良く生きるために、自らが楽しみ、自らが行なう自由な身体活動です。

1人1人の人間が自由な意思で楽しみながら自ら行なうのがスポーツです。

もちろん、他人がスポーツをしているのを見て楽しむという面もありますが、あくまでも1人1人が自らの身体を活用して行なうものです。

古代の剣奴の闘いや、戦車競争のように、皇帝が奴隷や戦士に大衆の前で闘わせて楽しませるというものありました。

しかし、これは正しいスポーツでもなんでもない、ただの見せ物です。

現代でも大衆の前で公開処刑をする国々が存在しますが、これらは、体制や社会に不満を抱く大衆の欲求不満のハケ口として支配者が利用する手段という意味で、剣奴の殺し合いも一緒です。

そもそも、古代には一般の大衆が、より良い生活のために楽しめるスポーツなどというものは存在していなかったのです。

たまにスポーツと言えるものがあったとしても、それはせいぜい一部特権階級の者にのみ与えられたものでしかありません。

現代において、果して、すべての大衆がより良い生活のために、自ら楽しむスポーツというものが十分保障されているでしょうか。

断じて否です。

21世紀においても、そのように真のスポーツを保障されている人々は、多くの国において、極く一部しかいないでしょう。

その結果、大多数の人々は、他人(殆どがプロフェッショナルのスポーツ人)の演じるスポーツを見聞きして満足しているのです。

そのことは、巨大なマスメディアの発達によって一層顕著なものになっています。

巨大マスメディアは、世界中で行なわれるプロのスポーツを、電波や活字などで一般大衆の茶の間まで届け、大衆がいかにも、自分でもスポーツに参加しているような感覚にさせるのです。

そのことによって、巨大マスメディアを初めとして、スポーツのイベントを主催する企業、団体は巨大な利権を手にするのです。

その最大のイベントこそオリンピックです。

6、オリンピックを頂点とするスポーツイベントに参加し、一定の成績を上げたアスリートは、月桂冠ではなく、今や1つのイベントだけで数億円の富を手にすることができます。

プロ野球の大谷祥平選手、プロテニスの大坂なおみ選手などは、僅か20歳そこそこで年間に数億円の富を手にしています。

それは純粋にスポーツの種目で上げた成績に対する報酬だけでなく、名声を博したことによる企業の看板、広告塔としての役割に対する莫大な契約金を含んでいます。

現在の日本のテレビのワイドショー、ニュースのキャスターに、いかにスポーツ界の出身者が多いことでしょう。

又、いかに多くの有名スポーツ選手が、政界に転身し栄達の道を歩んでいることでしょう。

今や有名人になり金儲けをしようとしたら、博士や大臣ではなく、子供をスポーツ選手にするのが一番の早道です。

甲子園に限らず、あらゆるスポーツが立身出世のための近道とされているのです。

では一体、大坂なおみ選手や大谷祥平選手、錦織 圭選手などが手に入れている莫大な報酬金というものは、一体誰が生み出しているのでしょうか。

それは紛れもなく、悲惨な生活を強いられている世界中の労働者です。

7、パラリンピックはどうでしょうか。テニス界を例にとると、日本には国枝慎吾選手や上地結衣選手など、世界レベルの障害者プレイヤーがいます。

グランドスラムでの優勝金額は、健常者の数億円に比較すると、その50分の1の400万円程度です。

それでも、毎回のように、国内、世界各地の大会に参加し、多くの観衆の前で好きなテニスゲームを闘える、などという境遇は、無数に存在する障害者から見れば、まるで雲の上の存在でしょう。

このようなある種恵まれた境遇の選手は、経済的にも相当恵まれた家庭に育った数少ない「エリート」でしょう。

しかし、大多数の障害者は、これら一部のエリート選手の活躍を見て、本当に生きる勇気を与えられるでしょうか。

むしろ現在置かれている苦しい状況を益々思い知らされるのではないでしょうか。

パラリンピックなど、いかにも、障害者であっても、努力すれば報われるというような幻想を与えていますが、本当のところは、経済的にも身体的にも社会の援助を一層厚くして欲しい、と願うのが大多数の障害者ではないでしょうか。

大多数の障害者にとっては、パラリンピックで莫大な予算を使わなくても良いから、もっと自分達の生活が豊かで暮し易いものになることをこそ、願っているのではないでしょうか。

又、パラリンピックやグランドスラムには出られなくとも、自分達にも最低限のスポーツのチャンスを与えて欲しい、と願っているのではないでしょうか。

そのことは、健常者についても全く同様です。

大多数の国民は、一日中休みもなく働き、自分がスポーツを楽しんだり、健康のためのスポーツに取り組んだりする余裕すらないでしょう。

又、誰でも、いつでも、安価にスポーツを楽しめる施設も満足にありません。

そのような人々に、先ず、スポーツをする自由と環境を与えることこそが優先されるべきであって、一部のスポーツスペシャリストのためのスポーツイベントやオリンピックを優先すべきではありません。

8、オリンピック憲章を見ると、実に立派なことが沢山書かれています。 

 ・ 良い手本となる教育的価値、社会的責任、普遍的・基本的倫理的諸原則の尊重に基いた生き方の創造

 ・ 人間の尊厳保持に重きを置く平和的社会の推進

 ・ スポーツを行なうことは人権の1つである。

   すべての個人は、いかなる差別もなく、スポーツを行なう機会を与えられなければならない

 ・ 人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基く差別は、オリンピック活動と相容れない。(etc.)

  こうしたオリンピック憲章の理念、理想というものが、真に生かされている国家というものは、残念ながら存在しません。

今や、新自由主義の経済原則がまかりとおり、どこの国も、「俺だけ、今だけ、自分だけ」の世の中になっています。

コロナ禍によって人類の生存が危惧されているにも拘らず、先進国と言われる国々では、コロナワクチンの醜い奪い合いを演じています。

そして国内では、8年間続いた安倍政権とそれを引き継ぐ菅政権によって、国家と国民の倫理観、道徳観は腐敗、衰退し、社会全体が腐臭を放っています。

このような時に、オリンピックを開催するなどということは、そもそもオリンピックの精神を踏みにじるものと言うべきです。

私達の時代は、到底オリンピックを口にできるようなものではありません。

今こそ、私達国民1人1人が自分の足元と、国、社会の現状に目を見開き、本来の人間としての生存の道を探求すべき時です。

一部のスポーツエリートと、それを利用して国民の血税を搾り取ろうとする大企業、マスメディア、官僚たちのために、国の莫大な予算を費消するなどということは、例え、コロナ禍が無かったとしても到底許されるべきことではありません。

エセ平和主義、平等主義が虚飾されたオリンピックという反人民的イベントは、今こそ廃止すべきです。

何が何でも、東京オリンピック・パラリンピックの中止、断念を希求しましょう。

以 上

 

 

小沢一郎議員を支援する会 

代表世話人 伊 東   章

 

日本学術会議の会員選任について

 

1、天皇による国事行為(憲法第3、4、6、7条)との対比 

 (1) 内閣総理大臣、国務大臣、法律の定めるその他の官吏(最高裁判事、検事総長等)の任命は、国会の指名、内閣の助言と承認により天皇が行なう。

しかし、天皇には、任命を拒否する権限はない。

天皇の国事行為の権限は、すべて形式的、儀礼的なものであり、自ら判断する権利を与えられてはいない。

そのことは、天皇の行為の根拠は、すべて国民の総意(意思)に基くものであるからである。

 (2) 一方、日本学術会議法第7条では、

  日本学術会議で選考した候補者を内閣総理大臣に推薦し、それに基いて内閣総理大臣が任命する

とされており、日本学術会議が選考、推薦した候補者を、自動的に内閣総理大臣が任命する仕組となっている。

日本学術会議法では、予め会議が会員として推薦すべき候補者の数を余分に推薦し、その中から定数分のみを総理大臣が任意に任命するという形式、定め方をとっていないのである。

つまり、内閣総理大臣は、日本学術会議から推薦された候補者を無条件で任命するという仕組となっているのである。

この点で、天皇が任命すべき内閣総理大臣、最高裁長官などの任命と全く同じ構造となっているのである。

その根拠は、日本学術会議法第3条にある

  「日本学術会議は独立して左の職務を行なう」

  という規定である。

   日本学術会議は、他のあらゆる権力(行政権を含む)から独立して、その職務を行なう、ということは、会の活動のみか、会の活動を支える会員の選任についても、他の権力からの独立を保障されているということである。

仮に、行政権において会員の実質的任命権を有することが許されれば、日本学術会議の独立性は有り得ないからである。

そして、日本学術会議の活動の独立の保障は、憲法第19条思想、良心の自由、第23条学問の自由の各保障を前提としているのである。

 (3) 仮に、日本学術会議の会員について内閣総理大臣が実質的任命権を有することを認めるのであれば、天皇が個人的に気に入らない安倍総理や菅総理を任命しないことも合法である、ということになる。

このことは、憲法上絶対に許されないことである。

 

2、このように日本学術会議の会員の選任については、形式上内閣総理大臣の任命行為が介在するものの、それは、天皇による各種行政官等の任命と同様、ごく形式的、儀礼的なものに過ぎず、いわば権威付けのための形式的手続であり、これを覆すような内閣総理大臣による解釈、介入の余地は全くないのである。

このことが現在の憲法の下で成立した日本学術会議法の正しい解釈であり、理念である。

これに対して、法文が内閣総理大臣の任命を明記していることを根拠に、いかにも内閣総理大臣が実質上も任命権を有していると解釈することは、天皇が自身の判断に従って、国会で指名された内閣総理大臣や内閣によって指名された最高裁長官を任命しないことも出来ると考えるのと一緒である。

日本学術会議の会員に対して内閣総理大臣が実質上の任命権を持つなどと考える者は、憲法と日本学術会議法を全く学んだことのない愚か者と言うほかない。

伊東 章

 

安倍政権を継承する菅内閣の憲法破壊を許すな

 菅内閣発足後初となる日本学術会議会員任命問題で、菅内閣総理大臣は日本学術
会議推薦にかかる会員候補の内、6名を任命拒否しました。


菅総理大臣は、日本学術会議法において会員の任命権は総理大臣にあるのだから
、場合によっては推薦された会員候補を任命しなくとも何ら違法、不当ではないと
言って、任命拒否の具体的理由、根拠を一切説明していません。


そして、国会での野党議員からの質問に対しては苦し紛れに、会員の出身大学の
構成が偏っているとか、年齢が偏っている等、全く頓ちんかんな答弁に終始してい
ます。

しかし、日本学術会議による会員候補の選任、推薦というのは、法律上絶対的な
ものであり、これを総理大臣が無視して任命拒否することは法律上許されていませ
ん。

内閣総理大臣による任命権というのは、天皇が国会から指名された者を内閣総理
大臣に任命したり、内閣が指名した最高裁長官を任命するのと同様、任命を拒否で
きない性格のものです。

もし、総理大臣が日本学術会議の推薦した会員を任命拒否できるとなると、天皇
が国会や内閣の指名した者を内閣総理大臣、最高裁長官に任命しないことも出来る
、ということになります。

このようなことは、日本の基本法である憲法を破壊すべき行為ということになり
ます。

安倍政権以降、自公政権による憲法破壊は目に余るものがありますが、安倍政権
の政策の継承者である菅政権の憲法破壊をこれ以上容認してはなりません。

伊東 章

野党は政権をとる気があるのか

<野党は政権をとる気があるのか>

  

1、自衛隊日報改ざん、閣議決定による憲法9条改悪、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、黒川検事長の定年延長法案、そして河井国会議員夫妻の逮捕。

僅か2~3年の間の安倍政権の悪政、失政は、ひと昔前であれば、その度に内閣が吹き飛ぶ程、政権にとっては大きな失策です。

当然のことながら、その間何度も内閣が総辞職し、与野党の力関係が大きく変わる筈のものです。

それにも拘らず、この数年間の与野党の関係は、殆ど変化がなく、相変らず安倍独裁政権が盤石の強さを誇り、野党や国民からの強い批判、非難に対しても、まるで蛙の面にしょんべんという、ふざけた対応を続け、いけしゃあしゃあとしています。

このような状況に、多くの国民が日々イライラを募らせています。

しかし、その原因の提供者は決して独裁者安倍の存在や、それを支える自民、公明、ネトウヨばかりではありません。

こうした独裁者、政権与党の度重なる失政に対して、まともな反撃ができない野党の不甲斐なさも大いに与っています。

本来であれば、安倍政権のこれだけの失政に対して、内閣総辞職を求め、仮に内閣が国会解散・総選挙に打って出てくるのであれば、これに堂々と応じるべきです。

ところが、なかなかそのようにならないのは、いつまでたっても野党が離合集散を繰り返し、一本化できないからです。

それ故、自ら解散・総選挙を訴えることもできず、常に内閣に主導権を握られた選挙しか闘えないのです。

そして、内閣の主導による解散・総選挙に対応するしかないから、その場しのぎの野党統一しかできないのです。

従って、どんなに有利な材料があっても、受動的にしか選挙を闘えないから決して選挙で勝てるわけもないのです。

それが、安倍第二次内閣成立以来の野党の状況です。

 

2、そのような状況を打破するためには、野党によるより積極的な政治戦略が求められます。

その一つは、先ずもって常に選挙において勝てる体制を整えることです。

現在の選挙制度が基本的に小選挙区制を採用している以上、盤石な自公連合に対して各野党が分裂して闘っても勝てる道理がありません。

そのためには最小限一致できる基本政策の下に一本化し、いつ選挙があっても十分に闘える態勢を整えることです。

今の野党連合のように、選挙の日程が決ってから(というよりも敵に決められてから)選挙目的で連合するというのでは、余りにも遅すぎるし、消極的に過ぎます。

もう一つは、国会での成果を幅広く一般大衆と共有するとともに、大衆の力を結集し、共同の闘いを目指すために、国会議員が積極的に大衆の中に入ることです。

かつて、ロシアでは「ヴ・ナロード」と言って、多くの知識人が農民、大衆の中に入って行って広く啓蒙活動をしました。

このような活動を国会議員が行なうことによって、国会での活動と大衆の活動が結びつき、より大きな大衆の運動が広がり、その結果来るべき選挙においても、その力が勝利を保証することになります。

そして、大衆運動の大きな力の背景があれば、いつ選挙になっても堂々とこれを受けて立つことも可能となります。

そうすれば、受身の選挙を強いられる、ということもないのです。

野党が本当に政権を奪還するつもりならば、一刻も早く組織を統一し、いつでも選挙を闘える態勢を構築する以外にありません。

そして、むしろ積極的に内閣総辞職・国会解散を仕掛けていくべきなのです。

 

伊東 章

国家に対する幻想を捨てよ

<国家に対する幻想を捨てよ> 

1、「国家とは、支配階級が被支配階級を抑圧するための機関である」というマルクス主義の定義によっても、国家が国民に一定の義務を強制する見返りとして、国家が国民の生命と権利、財産を守る義務を有することは否定できないところです。

その場合、民主主義を標榜する国家では、そもそも国家は国民の意思に従ってその存在を認められ、国民の意思を体現する限りにおいてその存在を認められる、という関係にあります。

国民の義務といわれる納税の義務、兵役の義務なども、すべて国家が国民の意思を体現するという前提の下に、最終的には国民の生命、財産、権利を守るための手段として国民に貸される義務なのです。

間違っても、国民から離れ、国民に敵対するものとしての国家のために、国民の国家に対する義務が存在するものではないのです。

2、それでは、現在存在する、日本を含めた世界の国家の在り方とは一体どのようなものなのでしょうか。

中国や中東地域、アフリカ等、未だ民主主義が成熟していない国々の国家は言うに及ばず、一応は「民主主義国家」と言われているアメリカ、ヨーロッパ、日本等においても、国家が国民の意思を真に体現しており、国家が主権者である国民の平和と豊かな生活のための道具となっている国家というものは皆無です。

多くの「民主主義国家」というものが、一部(国民の数パーセント)の特権階級の利益のために機能し、それら特権階級の特権擁護のために権力を行使する一方で、国の多数を占める国民のためには、国家として有する財力、権力を行使するどころか、逆にこれら大多数の弱者である国民の正当な権利行使を抑圧するために行使されているというのが実情です。

国家というものが、決して国民の生命、財産を守るものではなく、むしろ、その逆である、ということは、数次にわたって経験した大規模な戦争によっても明らかです。

しかし、そのような大規模な戦争以外にも、私達は日々国家というものの真の姿を見せられています。

3、現在、世界はコロナ禍に襲われ、殆どの国が大なり小なり、危機に曝されています。

そして、その対応は千差万別ですが、少なくとも国が、国民の生命、生活を最優先して擁護しているところは、一つとして存在しません。

そもそも国家というのは、国民あってのものであるにも拘らず、国民の生命、生活を最優先してコロナ対策に当っている国家というものは一つもありません。

すべての国が、国としての存立、即ち国の経済、大企業の発展、成長ということを第一次に考え、国民の生命、生活というものは、国を支える経済の担い手、富の源泉としての存在意義と持ったものとしてのみ、これを保護、擁護しているに過ぎないのです。

オリンピックを強行するために、コロナ感染の実態を隠蔽し、その対策を遅らせたり、国民に対する経済補償を出来る限り削減するために、未だ感染が収束しないのに、緊急事態宣言を解除するなど、国家が真に国民の生命、生活を守る意思を持っているとは思えません。

4、最近、北朝鮮による拉致被害者の会の代表者である横田滋氏が亡くなりました。

彼らは、拉致家族の救出を公約に掲げた安倍政権を信頼し、8年もの間安倍政権の言いなりになった結果、何ら得るところなく年老いていったのです。

日本が北朝鮮に比べて遥かに平和で住み心地の良い国であるかどうかについても多くの疑いがありますが、それでも長年生まれ育った故国から、突然外国の勢力によってわけもなく拉致され他国に隔離されることは、大きな不幸です。

このような犠牲となった国民を救出すべきことは、国民すべての生命、財産を守るべき責務を負う国家としての最低限の義務です。

かつて日本赤軍によってハイジャックされた「よど号」事件で、自民党の山村新治郎議員が身代わりとなって北朝鮮に飛び、人質全員を解放したことがありました。

これが、国家権力を与る者のなすべきことです。

しかし、安倍総理とその閣僚は、北朝鮮拉致事件において一体何をしたと言うのでしょうか。

口先では拉致被害者を取り戻す、と言いながらも、せいぜい、アメリカ大統領の尻を追いかけ、アメリカの圧力又は対話路線に乗っかって、漁夫の利を得ようと図ってきただけです。

そのためには、国の莫大な予算をつぎ込んで、使いものにならないオスプレイ、イージス・アショアなどの兵器を買わされ続けているに過ぎません。

結局のところ、拉致被害者の家族は、安倍政権のヤルヤル詐欺のコマーシャル塔として利用されていただけなのです。

5、安倍とその政権が執拗に旗振りをしている憲法「改正」も全く同じです。

憲法とか法律とかいうものが、国家権力や権力を行使するものの恣意的な権力行使を抑圧するために存在するものである、という極く基礎的な理解も無しに、ただただ国家権力と権力行使者の力をより増大化し、逆に国民の生活、権利を更に抑圧しようというのが、憲法「改正」の実態なのです。

戦前、日本人は、天皇の国家権力は、天皇が国、国民の父であり、家長であって、その天皇は家族である国民を愛し、慈しみ、その生命、生活を保障するものである、従って国民は黙って天皇(父)の命令に従っていれば幸福を保障される、と教えられました。

その結果、国民は戦争の惨禍に見舞われ、国は滅びました。

今、安倍とその内閣が目指していることは、その再現なのです。

私達は、そろそろ、国家に対する幻想を捨て、国家と国民との関係を正しく見直すべきです。

そして国家権力を国民の行使するものに変えるべきです。

 

伊東 章

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