<新型コロナウィルスと民主主義>
- 2020/04/03 17:31
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- 中国発生と言われている新型コロナウィルス禍が始まってから、ほぼ1四半期が経過した。
当初は中国湖北省武漢における感染者増加に世界が対岸の火事視していたが、次に日本におけるクルーズ船内の感染が確認されるまでは、まだアジアにおける事件であった。
ところが、今や新型コロナ禍は、イタリア、スペイン、アメリカ等、欧米が主たる犠牲国となるに及んで、漸く国際化してきた。
又、日本でも、3月24日に至り、東京オリンピックの延期が決定された途端に、東京での感染者が連日60人を超す異常な増加現象を呈している。
それとともに、日本でも緊急事態宣言を出すべきであるとか、首都をロックダウンすべきである、という世論が異常な高まりを見せている。
なる程、緊急事態宣言やロックダウンをすれば、大量の人の流れを阻止したり、集団での人の接触を回避することは、ある程度可能かもしれない。
しかし、ウィルスというのは、微小細菌であるバクテリアの半分以下(2~300ナノメートル、1億分の2ないし30メートル)の細菌であり、様々の生物に寄生して生育、増殖しているのである。
そして、今や殆ど全世界、全地域に跨って生息している以上、これを根絶するなどということは不可能なことである。
従って、新型コロナウィルス禍の根本的解決法は、人類のほぼ60パーセントが新型コロナウィルスの保持者になって免疫力をつけるか、ワクチンを開発して免疫力をつけるか、のいずれかしかない。
しかし、現状では、そのいずれの条件も満たされておらず、日々世界中からの感染者数、死亡者数の増加が報じられることから、世界中の市民がパニックに陥っている、というものである。
翻って考えてみれば、ペストを初めとする多くの法定伝染病にしろ、ごく最近発生したSARS、エボラ出血熱、エイズ等々、その発生時には、それ迄に例も見ない伝染病として特効薬も何もないのが当たり前であった。
その中で数多くの感染者が生じ、その内少なからぬ者が犠牲になってきた。
しかし、その中でも感染した多くの者が病を克服して生き残ってきたのである。
いかなる病気であれ、それに罹患して死に至る者と、生き残る者とがある。
その違いは何であろうか。
ひと口に「運」と言ってしまえば元も子もない。
その違いは、端的に言って各人の生命力、体力、意志力の相違と言って良い。
現代は、科学、技術の長年の成果によって、大抵の病気については、的確な治療法と、クスリによる根治力が保証されるようになった。
しかし、依然として成人の三大病と言われるガン、脳卒中、心筋梗塞についての根本的治療法、治療薬は発見されていない。
そればかりか、筋ジストロフィー、認知症等、数多くの難病については、ましてや風邪でさえ、依然としてその原因も、ましてや治療法も発見されていない。
つまり、現代医学とは、未だに原始時代のレベルからさしたる進歩をしていないのである。
それにも拘らず、多くの人々が現代医療が万能であるかのように過信し、何かがあるとすべて医学が解決してくれると思い込むのは大間違いである。
要は、いかなる場合でも病魔に侵されない強靭な身体を養うべきことと、いかなる病に罹ってもこれに打ち克てるだけの体力と気力を、常日頃から養うことである。
- 森かけ問題、桜を見る会問題を初めとして、疑惑にまみれている安倍晋三総理とそのお友達内閣は、今国会の冒頭から野党の厳しい追及に追いつめられてきた。
自分や妻・昭恵が森友問題に関わっていることが判ったら、総理も国会議員も辞める、と公言し、その結果、佐川財務局長を初め、財務官僚に公文書の改ざんをさせた挙げ句、その責を負って自殺した赤木元財務官僚の日記、手記が今年3月に公表された結果、いよいよ崖っぷちに追い詰められた安倍総理は、この新型コロナウィルスによって再び息を吹き返そうとしている。
一方で、多くの国民は、新型コロナウィルス禍の実態を教えられないまま、日々垂れ流される新聞、テレビ放送により、パニックの極に陥っている。
その結果、国民の実に70パーセントが国や都による非常事態宣言、ロックダウンを期待しているという。
しかし、前述のとおり、ウィルスには国境もなければ関門もないのである。
非常事態宣言やロックダウンによって、果して、新型コロナウィルスは、どこにも侵入してこないという保障はあるのだろうか。
完全に新型コロナウィルスの移動を抑止するとしたら、人も動物も物もすべてその動きを停止させ、(例え家族であっても)すべてを孤立化するほかない。
しかし、そのようなことが可能な筈はない。
要するに、新型コロナウィルス対策としては、個々人による消毒と免疫力の強化以外にはないのである。
にも拘らず、これだけ多くの国民が公権力による強制力の行使(それも殆ど有効性の乏しい政策)を期待する心理とは一体何なのであろうか。
つまり、それは、何かしら困難があると、そのことの解決策を公権力や他人に求める、という他力本願、言い換えれば市民の1人1人が物事の本質やその解決を自身で考えない、行なわない、何らか他の権威に依存しようという考え方の現れではないだろうか。
民主主義というものは、人間それぞれが平等であり、それぞれが他者を尊重し合う関係であるが、そもそもその前提には、それぞれの個々人が1人の自由人として物事を論理的、理性的に考察しうる能力を有していることが予定されているのである。
こうした個々人の判断力、思考力というものは、単に選挙とか政治活動の領域に限られたものではない。
あらゆる人間の営みの中で、1人1人が合理的で、理性的な思考力を持たない限り、民主主義という制度は成り立たないのである。
にも拘らず、この新型コロナウィルス禍の中で、いかに多くの市民が公権力の力に頼り切った考え方を持っているかを目の当たりにすると、教科書に書かれている民主主義というものが、全くの絵空事と思えてくる。
前述のように、この新種のコロナウィルスに対しては、専門の学者にも、ましてや政治家にも詳しいことは何も判ってはいないのである。
その点では一般の市民の知的レベルと全く一緒なのである。
だとすれば、今ここにある危機に対しては、我々市民1人1人が、かつて庶民がそれぞれの知恵に従って生き延びてきたように、いかにしてこの禍から生き延びるかを考えるべきなのである。
私たちには、日々生きるための糧が必要である。
それ故、1日中あてもなく家の中で待機しているわけにはいかない。
ウィルス禍と闘いながらも、日々の糧を得るための努力を続けなくてはならないのである。
そのためには、どうすべきなのかを、総理も知事も教えてはくれないし与えてはくれない。
それを自分の頭で考え、行動するのが真の民主主義者である。
我々は、信用の出来ない権力者に頼ってはいられないのである。
伊東 章
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